生産地情報

1.トゥンカーワット農園経営農民会

ソムヌック・ラティデーチャーノン

ソムヌック・ラティデーチャーノン

1993年7月、ラメーホムトンバナナグループの名のもとにわずか36名の有志たちの協力により開始されたこの日本輸出向け無農薬ホムトンバナナ栽培事業は、1995年3月21日に現在のトゥンカーワット農園経営農民会へと改称され、今では生産会員数が800名を超えるまでに成長しました。“環境保全型農業の推進”“農村部の雇用促進”“無農薬農業”“国際親善”の4項目を理念とした我々の活動は、今では国や地域社会からも認められ、優良農民会として数々の賞を受賞しています。地域住民はもとより、今後のタイ国の発展のためにも、末永くこの事業が続くことを願ってやみません。

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バンコクより約480km、海沿いのラメーの町から標高100~200mほどの山岳地帯にかけての地域で、熱帯であり一年中気温は30~35℃と高いです。雨期が一年の半分以上(5月~12月)と長いです。最近は世界的な異常気象の影響もあり98年、04年と大きな干ばつに見まわれました。もともとタイ政府が開墾した土地で南部から入植した農家が多く、バナナ農地も平地から山間部のもの、大規模栽培から庭先栽培のものと多様です。水の有効活用、土壌の疲弊を防ぐため果樹との混植栽培をする生産者が多く、ゴム、コーヒー、パーム椰子、ドリアンなどの産地です。ホムトンバナナ栽培以前に商業的なバナナ栽培の歴史はありませんでした。

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チャイヤー地区、トゥンカーワット地区、プララック地区、ファイサイカオ地区、バンナーサーン地区、パノム地区、カオタル地区、ナムチャー地区、ナイトゥン地区、サーマッキータムカワンジャムパー地区、クロンクラン地区、ターチャナ地区、ヌーンサンテイ地区、ミットアーリー地区、サラカオ地区、ヒンルークチャーン地区。

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817名


2011年8月現在

2.バンラート農業共同組合

フーン・プーンソムバット

バンラート農業協同組合は、“組合員の満足”を第一義としながら、組合員同士の支え合いと各個人の自立を目指し、日々の活動に邁進しております。1975年8月1日の組合設立以降、現在までに組合員世帯数は約7,500名を数えており、組合の取り組んでいる各種事業の中でも1996年6月にスタートしたこの日本輸出向け無農薬ホムトンバナナ栽培事業に於いては成長著しく、現在までに生産会員数が640名を数えるほどの、今では当農協にとって欠かすことのできない一大事業へと成長しています。生産者と消費者間のたんなる作物の取引きではなく、“人と人との交流”を重視したこの事業は、タイ国では過去に例を見ない、非常に興味深い取り組みであると感じています。

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バンコクより南西に約130km、南部がなだらかな高原地帯、東部が海岸地帯でその間の平野地に広がっているのがバンラート郡です。 西部にダムがあり用水路が何本も東西方向に流れ、水利に恵まれており、米を雨期、乾期の二期作で作れるのはこのためです。 首都バンコクより近いという立地条件があり、1000万人近い人口を抱える首都圏の食糧基地としての機能をはたしています。海岸地帯にはホアヒン、チャアムなどのリゾート地も近く多くの観光客が訪れます。

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ムアンガーム地区、ライサトーン地区、ルムサモー地区、バンソン地区、マプラカオ地区、バングアイ地区、グラットルアン地区、ノンフェブ地区、ラハーンヤイ地区。

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640名


2011年8月現在

3.チュンポン県ホムトンバナナ生産組合

プラスート・ポンプルクサー

チュムポン県無農薬ホムトンバナナ生産組合。“無農薬”の名を冠する当組合は、これの実現こそにその存在意義があり、我々にとって決して外れてはならない“道”であります。当組合の発足当初は当然ながら正しい栽培知識を持った者は無く、誰もがただ闇雲に栽培に取り組むだけで、数々の失敗を繰り返して来ました。しかしその経験があったからこそ、我々は知恵を絞るようになり、新しい栽培技術が生まれ、“無農薬”でバナナを栽培するという我々の“道”が、よりしっかりとしたものへと生まれ変わりました。今後もこの“道”をよりしっかりとしたものへと作り上げていくべく、生産者一同手を取り合いながら、努力邁進していく次第です。組合長という立場にある私が目指すところは、すべての生産者の成功です。家族であり、仲間である生産者の誰かが失敗をして痛い目を見ているうちは、真の意味での成功とは言えません。全員が笑える日を目指し、これからも頑張っていきたいと思います。

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ホムトンバナナは4つの産地で栽培しています。今回はチュンポン県ホムトンバナナ生産組合を紹介します。 もともとはトンカーワット農園経営農民会の会員であったパト郡の生産者が、遠隔地であるため出荷もたいへんなことからパト郡の森林局水源管理事務所と協力して独立し設立しました。その後生産の拠点はパトからやや北のサウィーに移り、04年5月には組合法人として認可され現在の名称になりました。コーヒーが最も栽培が盛んな作物であり、バナナ栽培が商業的に行われてきた歴史はありません。他にはドリアン、ランプータン、マンゴスチン、ココナッツなどのトロピカルフルーツの栽培が盛んです。

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ナーポー地区、ナムチャー地区、ナイトゥン地区、チュンポン地区。

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125名


2011年8月現在

4.イサーンホムトンバナナグループ

ジャカリン・ポープロム

私が初めて近隣農家を集めてホムトンバナナ栽培グループを結成したのは、1997年のことです。以来、20名のメンバーで国内販売向けにホムトンバナナ栽培に取り組んで来ましたが、国内で捌くには週5トンが限界で、常にそれを超えないよう栽培量の調整を行う必要がありました。“もっとたくさん作れるのに、売り先がない”という長年我々の頭を悩ませ続けて来たこのジレンマを解決してくれたのが、この日本輸出向けホムトンバナナ事業です。農家の中には、本当に日本人がバナナを買い取ってくれるのかと信用できずにいる人もまだまだ多く、2010年9月の第一回出荷以降、今のところ大した量の出荷は実現できていません。しかし伸び代はいくらでもありますので、期待して待っていてください。

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バンコクからノーンカーイは北東へ約600km、 列車で約12時間バスで約10時間くらいかかります。ノーンカーイ県はコーラート台地に位置する。メコン川に接しそれがラオスとの国境にもなっている。ノーンカーイ中心部からは25km離れたところにヴィエンチャンが位置し、県庁所在地からはタイ=ラオス友好橋がかけられており、陸路によってラオスに行くことが出来る。ちなみにノーンカーイ県民の場合はビエンチャンへ行くのにビザがいらず、船によって簡単な手続きを踏んで越えることが出来る。ノーンカーイ県はラーンサーン王国、アユタヤ王国双方の支配を代わる代わる受けたことで有名である標高が平地より100~200m高い。そのため降雨が不安定で旱魃・洪水が多い。暑季には36度以上にもなり乾期には15度以下になったりする厳しい気候。

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サーンコーム地区、ポーンピサイ地区、ファオライ地区。

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77名


2011年8月現在

トンワーカット

ラメーってどこにあるの?

タイの首都バンコクから南へ約570キロ、チュムポン県ラメー郡に「トゥンカーワット農園経営農民会」の活動現場があります。「トゥンカーワット」とはラメー郡にある地区の名称で、この農民会に所属する会員の多くがこの地区に居住していることからこの名称がつけられました。

ラメー郡はゴム、パーム椰子、コーヒーなどの栽培が盛んな農業地帯。郡としての歴史はまだ浅く、現在ここに生活している人々のほとんども他の地域から入植してきた人々で、まだ入植第一世代の世帯がかなりの数に達します。いわば「開拓農村」なわけです。わずか30~40年前までこの地域には住む人もなく、鬱蒼とした熱帯林が生い茂っていた といいます。行政の働きかけで入植が奨励されたのを皮切りに南部タイのあちこちから次々と入植者がこの地に駆けつけ、この森を切り拓いて生活の糧となる農作物を植えていったのです。当時は野生の虎などもいたということです。ラメーの皆さんと話をすると、ワクワクするような開拓農民の生の経験を聞くこともで きます。

農民会の発足は1993年7月、大阪にある大阪よどがわ市民生協の呼びかけに応じて農民会の組織化に加わった発足当初の 会員数は46名。彼らは無農薬バナナを同生協に供給するために、団結して農民会を組織したのでした。同生協は「安全、安心」をテーマに環境にやさしく、人間にとって安全な商品の開発と消費者への供給を設立以来ずっと追及してきた生協ですが、この間組合員の要望に答えられない商品がありました。それがバナナだったのです。生産者がはっきりとわかり、生産過程で農薬が使用されず、しかも生協がその生産物を利用することで、生産者とその地域社会が良くなっていくようなバナナを、よどがわは十数年間、捜し歩いてきたのです。

それまでラメーの人たちはバナナを本格的に栽培したことなどなかったのですが、8月にはバナナの作付けが開始され、バナナ園があちこちに誕生しました。年が明けた94年1月、よどがわ生協の友好訪問団がラメーを訪れ、相互の交流と協力を約束し会う「共同宣言」への調印が行なわれました。そして3月に記念すべき第一回出荷が行われたのです。

それ以来ラメーの生産者は2年目には100名を越え、地域に根付いた組織へと徐々に成長してきています。日本の消費者との間の交流活動は継続的に展開され、毎年相互に代表団を相手国に派遣しながら相互理解を深める中で、組織の運営能力やバナナの生産技術を向上させてきています。94年10月にはとくしま生協がこれに加わり、その後同生協も会員となっているコープしこく事業連合全体がラメーのバナナを扱うに至っています。95年3月に任意団体だったグループは正式に法人登録され、名称をこれまでの「ラメーホムトンバナナグループ」から「トゥンカーワット農園経営農民会」へと改称、またこの年鳥取県生協も供給先の仲間に加わりました。

98年、タイは未曾有の金融危機に遭遇しましたが同時にエルニーニョ現象によって大旱魃が襲った年でもありました。この年ラメーのバナナは壊滅的な打撃を受けます。しかしよどがわ生協からの義援カンパが寄せられ、会ではこれを「よどがわ基金」として旱魃被害後のバナナ生産復興基金として運用しました。この頃年週当たり出荷量わずか 700kgという水準にまで落ち込んだこともありましたが、生産者は粘り強く栽培を続け、徐々に生産量が回復、翌年には週6~7トンというところまで回復しました。

99年以降は順調な天候にも 助けられバナナ生産は着実に回復し続けました。この頃を境に会はバナナ生産に関する生産指導力を徐々に身につけて行きます。それまではどちらかというとた だ出来上がったものを買っていたに等しかったのですが、大旱魃によって生産基盤が崩壊したことで執行部自らが生産現場に行って生産者の話を聞くことの重要性を再認識したのでした。折りしも経済危機の嵐が吹き荒れる中、農家の購買力は低下し、エルニーニョ旱魃の影響はバナナだけでなく、ゴムや他の果樹などにも壊滅的な打撃を与えたため、農家は栽培期間が短くて現金を取得できる作物に傾斜しようとしていました。そこでバナナが農家の暮らしと農業経営の中で重要な位置を占めるようになっていったのです。

会員の中から専従者としてスカパット専務理事が就任、会員をこまめに訪問して栽培指導を地道に始めました。将来の旱魃被害に備えて、栽培対象地域をラメー郡外にも拡大、近隣のターチャナ郡の生産者などが仲間入りしました。さらにパト郡、ランスワン郡などからも若手の熱心な生産者が駆けつけ入会、会員数は280名を超える大所帯になりました。生産の裾野と多様性が広がったことに加え、99~2000年の乾季は雨が比較的頻繁に降ったためにバナナの生産全体も急激に伸びました。農民会の2000年のバナナ出荷量は前年からほぼ倍増、3月には創設以来初めて注文を上回る余剰が出るに至りましたが、99年後半から首都圏コープ事業連合(現パルシステム生活協同組合連合会)が供給先に加わったことがこの生産増をうまく吸収しました。この時期の農民会のバナナ生産は2002年と05年に旱魃被害を経験する(この時の被害も前二回に引けをとらない深刻なものでした)ものの、基本的には右肩上がりで推移しました。

2007年には首都圏コープ事業連合とペッブリ県バンラート農協が提携して結成された産直協議会に農民会も正式に参加、同年10月には同連合会が日本国内を含む産直産地で頻繁に実施している公開確認会が農民会で開催されました。これは2004年にバンラート農協で開かれたものに続く、タイのバナナ産地としては二回目の公開確認会で、日本から20名以上の生協関係者、学識経験者が参加して農民会のバナナ生産管理の仕組みなどについて確認しました。

2008年、農民会はパルシステム連合会(首都圏コープ事業連合から改称)の助成を受けて本部敷地内にBM生物活性水プラントを造成、環境にやさしい農業生産体系の構築に向けてさらなる一歩を踏み出しました。

2012年10月現在、農民会の会員数は800名を超えましたが生産圃場数は190箇所余りに縮小してきています。度重なる突風被害や洪水、旱魃などの自然環境の変化によって生産が安定していないことが原因で、出荷量も2006年をピークにその後は伸び悩む状態が続いています。農民会では生産の建て直しに向けて地道な努力を続けていますが、同時に「量を追求するよりも質的な転換を」を目標に掲げて、生産の裾野を無闇に拡大するのではなく、個々の生産者の栽培管理の質的向上などを重視することで量的な拡大にも繋げたいとしています。天候不順が頻繁になって生産が益々不安定になる要素が強まる中で、農民会の地域における指導力が問われています。

2011年の農民会の事業高は約1200万バーツ、資産総額は502万バーツとなっています。

トゥンカーワット農民会役員名簿(任期2012年1月~2014年12月)

理事長ソムヌック・ラティデーチャーノン
副理事長スウィット・ヌートーン
理事ピチット・ソイホーム
理事ゴーソン・ゴーミン
理事バムルン・トンカム
参事カムヌアン・ペンサグン

生活協同組合連合会首都圏コープ事業連合(以下甲という)、株式会社ジーピーエス(以下乙という)、トゥンカーワット農園経営農民会(以下丙という)、の農畜産物の産直提携事業に関する協定を以下の通り締結する。

第1条(目的
本協定は、生活者(消費者・生産者を包含する)の健康で安心なくらしに貢献するため、農業の持つ多様な価値を見直し、環境保全・資源循環を基本におき、農と食をつないで、豊かな地域社会をつくることを目的とします。

第2条(提携産地の条件)
本協定における丙は、以下の基準を満たすことを条件とする。

  • 生産者・産地が明らかであること
  • 生産方法や出荷基準が明らかで生産の履歴がわかること
  • 環境保全型・資源循環型農業をめざしていること
  • 生産者と組合員相互の交流ができること

第3条(相互協力と役割)

  • 乙及び丙は、相互協力により、以下の役割を担うものとする。
  • 計画に基づく安定的な農畜産物の取引に努める。
  • 提携産地の生産、栽培の努力を適切に評価し、相互に納得できる価格での取引を実現する。

甲及び乙は、以下の役割を担うものとする。

  • 消費者の安全な農畜産物を求める立場から、食の安全性に関わる情報や消費者の要望を提供する。
  • 提携産地の、農畜産物の生産及び技術の研究に支援、協力をおこなう。
  • 農産物の加工や流通について、環境への影響の低減と合理的な組立に協力する。

第4条(取引条件)
取引条件に関しては、関係者間で別途締結する商品取引契約書・覚書等に基づくものとする。

第5条(有効期限)
この協定書の有効期限は2005年4月1日から2006年3月31日までとする。ただし、期間満了の1ヶ月前までに当事者のいずれかにより、書面による異議申し出がない場合は、更に1年延長するものとし、以後もこれに準ずるものとする。

2005年4月1日

前文

タイ国「ラメー・ホムトンバナナ・グループ」(以下甲という)と日本国「大阪よどがわ市民生活協同組合」(以下乙という)およびアジア文化交流会(以下丙という)は、1994年1月16日の甲、乙および丙による共同宣言を実効あるものにするため、以下の申し合わせをします。

第1条(目的)

甲、乙および丙は、甲の農業を発展させて豊かな生活を築きたいという願いと、乙の安全・安心なバナナが欲しいという願いの実現のために、お互いの立場を尊重しつつ、協力しあうことを約束します。

第2条(お互いの責任)

甲および丙は、乙の組合員の願いを尊重し、乙の指定するバナナを無農薬で生産し、遅滞なく確実に受け渡しをします。乙は約束したバナナの普及活動を誠意をもって行います。

第3条(売買契約)

1.甲および丙が乙に供給するバナナの受渡条件、支払条件および恒常的な取り引きについての条件は、別に定める契約書に基づいて行います。なお、バナナの品質、単価、数量等の条件が変化する時は、甲、乙および丙が協議して決定します。

2.乙および丙は、甲から供給されたバナナの日本における植物検疫の結果、廃棄率とその理由、乙の組合員の反応などを甲に報告する義務を負います。

第4条(栽培および検品)

1.甲は、誠実に乙の希望する無農薬バナナを栽培し、確実に検品のうえ乙に供給します。施肥等についても乙と協議のうえ実施します。

2.丙は、乙の栽培および検品の方法について助言し指導に努めます。

3.甲および丙は、作付けに参加したグループ員を登録し、定期的に乙に連絡します。

4.甲および丙は、バナナの生育状況を、定期的に乙に連絡します。

第5条(相互の交流)

甲、乙および丙は、共同宣言を基礎に、お互いの立場および要求を理解し、相互の信頼と友好を強めるために交流に努めます。そのための交流基金制度を設け、その拠出および支出方法などについては、甲、乙および丙の協議のもとに行います。

第6条(窓口)

1.基本問題については、甲、乙および丙の三者で協議して決定します。

2.実務上の窓口は丙を指定し、甲および乙は丙を通じて連絡をします。ただし甲または乙が相互に直接連絡することを妨げませんが、なるべき速やかにその都度丙にも連絡することとします。

第7条(重大な変更)

甲、乙および丙は、前条までに定めた事項が守れない状況になった場合、速やかに他の二者に連絡し、三者で協議して解決します。

第8条(その他)

この申し合わせに定めがない事柄については、甲、乙および丙の三者で協議して、決定します。

第9条(期間)

この申し合わせの期間は1年とし、甲、乙および丙のうちから異議が出ないときは、さらに1年単位で継続します。

1994年4月25日

主旨

日本国内では1963年の輸入自由化以降バナナはみかん、りんごに次ぐ消費量の多い果物になっており、甘くて食べやすく高カロリーであるという特性から、乳幼児からお年寄りまで広く食用に供されています。しかし昨今は生産地での大量の農薬使用やポストハーベストなどが問題になっており、「安全・安心で質の良い」バナナを求める消費者が多くなっています。

「無農薬栽培バナナ」の取扱は、消費者のこうした声に応え、また生産者の自立と発展に貢献できることを目的とします。

この主旨をふまえ、生活協同組合とくしま生協(以下とくしま生協)と株式会社アジア文化交流会・夢のバルーン(以下アジアバルーン)及びラメーホムトンバナナグループ(以下ラメーホムトングループ)は「無農薬栽培バナナ」の取扱にあたって下記の通り覚書を締結します。

 

確認事項

1.とくしま生協、アジアバルーン、ラメーホムトングループは「無農薬栽培バナナ」の取扱を通じてとくしま生協組合員の生活と健康を守ると共に、ラメーホムトングループ生産者の自立と発展に貢献します。

2.とくしま生協、アジアバルーン、ラメーホムトングループは「無農薬栽培バナナ」の取扱にあたり、上記の目的の達成のために長期的な視野に立って協議を重ねます。

3.「無農薬栽培バナナ」の取扱にあたり、とくしま生協、アジアバルーンはとくしま生協組合員の利用結集につながり、且つラメーホムトングループの生産性が確保できる適正価格の実現に努力すると共に、ラメーホムトングループは新鮮・安全・良質な「無農薬栽培バナナ」の効率的生産と供給に努めます。

4.「無農薬栽培バナナ」の取扱にあたり、その栽培方法及び管理・出荷方法については別途覚書を締結するものとします。

5.「無農薬栽培バナナ」を前進させるために、とくしま生協はラメーホムトングループとの交流を深めると共に、とくしま生協組合員とラメーホムトングループメンバーは必要な学習活動を進めます。

6.「無農薬栽培バナナ」の取扱をさらに発展させるために、関係する機関や団体の支援・協力を求めます。

7.本覚書の証として、タイ語文、日本語文、英語文各三通を作成し、各々が各三通を保有します。

1994年10月14日

大阪よどがわ市民生活協同組合、鳥取県生活協同組合、生活協同組合連合会コープしこく(以下消費者団体)とトゥンカーワット農園経営農民会(以下生産者団体)及び両者を仲介する株式会社パシフィック・トレード・ジャパンと株式会社パンパシフィックフーズコーポレーション(以下仲介団体)は、生産者団体が生産し消費者団体に供給する無農薬バナナの栽培・出荷について以下の基準に基づく生産・出荷活動を推進することに合意した。

1.基本方針

すでに文書で確認されている以下の3つの文書の趣旨を継承する。(イ)、生産者団体が1994年1月15日に大阪よどがわ市民生協との間で調印した『共同宣言』、(ロ)、同年4月25日に調印した『ホムトン・バナナの取り引きについての申し合わせ』、(ハ)、同年10月14日にとくしま生協との間で調印した『共同宣言』。

2.基本となる基準

この基準に反したバナナは三者の事前合意がない場合供給しない。

(1)生産関連基準

1.無農薬栽培:栽培期間中は圃場内での一切の農薬使用をしない。(イ)、ここでいう「栽培期間」とは最初の苗の定植を開始する3ヶ月前から同一圃場における最後の収穫が完了する時点までを意味し、二番苗以降のものについても適用する。(ロ)、「無農薬」とは工業的に生産された殺虫剤、殺菌剤、除草剤、防虫剤等の化学農薬を使用しないことであり、バナナはもとより同一圃場内にある他の植物に対しても使用しない。ただし生産者が独自に天然資材を使用して製造するもの及び天然資材のみを原料としていることが証明できるもので、かつ環境・生態系、生産物及び人体への負荷が無いことが証明されたものを除く。

2.品種:ホムトン種であること。

3.生産者:生産者団体の会員であること。

(2)出荷関連基準

1.熟度:花芽を切断した日から50日以上のものであり、完熟した状態を100%とした場合に75%~80%の熟度であること。

2.サイズ・重量:1ピース当たりの重量が100グラム以上あり、かつ房外側中央の実の最大円周が10センチ以上であること。分断された房の場合には分断部から数えて外側2番目の実を対象とする。

3.傷・アザなど:当たり傷、アザなどが全房の表面積のうち目検で、あわせて20%以下であること。ただし輸送中の品質劣化に繋がると判断される表皮部の生傷は認めない。

4.温度管理:収穫から36時間以内に冷蔵庫に搬入されること。

5.情報管理:出荷される全ての箱について、箱番号で圃場と生産者が特定できるよう情報が管理されること。

6.収穫後の農薬使用禁止:収穫後パッキング・ハウスに搬入されてから梱包後出荷されるまでバナナ、包装資材、箱などに一切の農薬を使用しない。

3.目標とする基準

よりよい品質のバナナを供給するために目標となる基準であり、生産者・出荷者はこの基準を満たすよう鋭意努力する。

(1)生産関連基準

1.土壌の管理:長期安定的な生産を維持し、連作障害を防止するための土壌管理に常時気配りをすること。バナナ定植1,000本当たり3t以上を目安に有機堆肥を充分に投与し、化学肥料は必要な場合であってもその使用を最小限度に抑える。また混植、輪作体系、休耕などによる土壌の安定化を図る。なお土壌調整目的の生石灰の使用は定植前に限り、必要な場合に限り最小限度認める。

2.苗の育成及び栽培管理:健全な苗の生育を維持するために、別途定める栽培管理マニュアルに基づいて、苗の選別、定植間隔、脇芽の処理、葉の処理、施水、施肥などについて最低限必要な管理が施されること。

3.肥培記録の管理:生産者は自身の肥培管理・栽培管理記録をつける。

4.生産・栽培記録の公開:生産者団体は生産者に対し肥培管理記録・栽培管理記録を常に開示できる状態で保管するよう指導し、消費者団体より要請があった場合には常に開示する。

(2)出荷関連基準

1.集荷管理:圃場での集荷は出荷当日の早朝に行い、農場での滞留時間が長くならないように努める。

2.工程管理:収穫後のパッキング・ハウスまでの輸送や梱包作業中に生じる品質劣化及び日本までの輸送途中に生じる品質の低下を最低限に抑えるためのバナナの取り扱いや輸送方法及び梱包方法などについて、別途作成する作業マニュアルに沿った管理を行なうこと。特に収穫から冷蔵庫搬入までの時間を24時間以内にするよう努めること。

3.作業効率や精度を維持するための作業場の管理・運営を向上させていくこと。

4.衛生管理:使用する水、資機材、作業員の身辺など作業環境を清潔な状態に保ち、商品の安全性に影響すると見なされる病原菌等のパッキング・ハウスにおける繁殖を予防するよう努めること。洗浄水・石鹸水などの入れ替えは作業工程表に沿って進める。

5.機材管理:冷蔵庫その他の機材の稼動状態を定期的に点検し、異常が発見された場合には直ちに対応すること。

4.基準の変更

上記基準の変更についていずれかより提案があった場合には三者協議し、一時的な変更、恒久的な変更であるか否かを問わず各団体の文書による承認によって発効する。

5.基準遵守・励行状況の情報開示

生産者及び生産者団体は仲介団体に対し常に本基準遵守・励行状況について情報を開示する義務を負う。

2002年9月14日

トゥンカーワット農園経営農民会、バンラート農協バナナ生産者協議会、パ・ト・ホムトンバナナグループは、各団体に所属する生産者が日本向けに生産する無農薬栽培バナナの生産活動・出荷活動に関し、以下のような協力関係を結ぶことに合意し、本日覚書に署名します。

1.三団体は栽培技術・出荷技術・組織運営技術などについて各々の経験や情報を交換し合い、各面における技術向上に繋げます。このため年最低二回、三団体合同の技術交流会を主催地持ち回りで開催します。

2.三団体は三団体共通の最低基準ならびにそれぞれの標準についての研鑽を通じて、栽培・出荷水準の向上に向けて努力します。

3.三団体は各生産地で天候不順など不測の事態によって生産物の過不足が生じた場合、消費者サイドの了解を得た上で相応の生産物相互補填を行ないます。

2003年2月28日

地理情報

チュムポン県は南部タイ14県の玄関口に当たる県で、バンコクからマレー半島を約500キロ南下したところにあります。緯度は北緯10度29分、経度は東経99度11分、県の総面積は約6000平方キロとなっています。南北に長い形状をしており、東西の幅は平均36キロしかありませが、.南北は200キロを越えています。

南北に長い県ですが、地形的な特徴は南北に縦長に切る形で三つに分かれています。一番西側は山地部で、ここから数本の河川が東に向かって流れており、県中西部の農業・生活用水を供給する貴重な水源となっています。中央部はなだらかな起伏がある平野部であり、農業生産に適した地域を形成、県土面積の四分の一を占めています。一番東側は平野部であり、220キロに達する海岸線を形成しています。

季節は主に乾季・雨季の二つに分かれ、乾季は12月~5月、雨季は6月~11月頃までです。乾季に入ったばかりの12月~1月が最も気温が下がる時期で、16度前後まで下がる時があります。一方最も暑いのは3~4月で、平均36度前後となります。

年間総雨量は過去30年の平均で2215.8ミリ、最も雨量が多いのは11月の354.6ミリ、逆に最も少ないのは3月の58.9ミリとなっています。

県の歴史

考古学の研究知見などを参考にする限り、現在チュムポン県がある地域に人間が住み出したのは少なくとも紀元前後の頃まで遡ることができるようです。東西の幅が狭く、アンダマン海側とシャム湾側とを結ぶ物流ルートとして古くから利用されていた形跡があり、ペルシャやインドから着いた貨物が一旦現在の西県境付近まで川を上ってきて陸揚げされ、そこから陸路を辿って東側の海岸に出る河川まで運ばれたと言われています。逆に中国やメコン川河口周辺で取れた産物を西に運ぶ時にもこのルートが活用されたようです。現在県庁所在地があるチュムポン市の付近にカオサームゲオという丘がありますが、その丘の西側が河口となっていてそこまで貨物が運ばれてきたのではないかと言われています。この川(タータパオ川)は県北西部を上流としていますが、上流にある村からアンダマン海に繋がる河川(クラブリ川)の源流となっている地点までを繋ぐ、非常に古い山道があり、ここが古くからの物流ルートとして機能していたのではないかと言われています。同じような機能を持つルートは、現在私たちのバナナが栽培されているパトとランスワンを繋ぐ地域にもあったといわれています。恐らくこれらのルートが機能していたのは今から2000年ほど前ではないか、というのが専門家の説です。

ただチュムポンの名前が歴史の史料に初めて登場するのはそれからずっと後のことです。ナコンシタマラートという、今はタイの一県(チュムポンからさらに南に二つ行った県)になっていますが、かつてはシュリーヴィジャヤ帝国という、ジャワ島に栄えたと言われる「海の帝国」の一大要衝として大きな勢力を誇っていた都市がありました。そのナコンシタマラートの建都にまつわる伝承の中にチュムポンの名前が出てくるのが、最初なんだそうです。仏暦1098年(西暦555年)にナコンシタマラートを建都した際に、北を守る要衝としてチュムポンに帰属を許した、というような記録がある。タイの歴史時代で言うとスコータイ王朝のさらに前の時代に当たります。ということはすでにこの頃チュムポンの町は形成されていたということです。

これ以降数世紀、チュムポンの名前は史料に登場することがなく、再度その名前にぶつかるのはアユタヤ時代の仏暦1997年(西暦1454年)を待たねばなりません。ただそれも簡単で、ある貴族にチュムポンを領地(サクディナーと言います)として与えた、という記述があるだけ。その後アユタヤ王朝はナコンシタマラートと戦い、仏暦2229年(西暦1686年)にこれを併合しますが、この時にチュムポンの兵士たちを味方につけてナコンシタマラートを攻めたという記録もあります。仏暦2307年(西暦1764年)にはビルマ軍に攻められて一時征服を許した時期もありました。

アユタヤ王朝が崩壊し、トンブリ王朝を経て現在のラタナコシン王朝の時代になってもタイはビルマとの戦争を繰り返しましたが、その際にも南側の戦略拠点としてチュムポンは重要な位置を占めたといわれます。海戦を行なうため海軍がチュムポンを拠点としたという記述もあり、古くからこの地が常時は交易の要衝として、非常時には戦いの要衝として機能していたことが判ります。ビルマとの戦いは19世紀にイギリスが干渉して同国を自国の殖民地とするまで続きますが、実はイギリスがビルマを攻めるに当たってはタイもこれに協力、やはりチュムポンを海軍の拠点として攻めたと記録されています。

なお近代史の中でのチュムポンですが、第二次世界大戦が開戦したのはご存知の通り、日本の真珠湾攻撃がきっかけでした。ただこの真珠湾攻撃があった1941年12月8日、日本軍はインドシナ半島にも同時に上陸しています。その最初の上陸地の一つがチュムポンでした。上陸したのはこの日の午前2時、この時チュムポンに駐屯していたタイ国軍の軍勢はちょうど演習に出ていて不在だったため、30名余りの予科練の少年兵が日本軍を迎え撃ち、至近距離で銃撃戦を展開したといいます。その後昼近くになって、日本軍に攻撃を加えることなく通過させよとの打電があり、銃撃戦は打ち切られたそうです。日本軍の目的地は英国の植民地ビルマでした。こうして見るとアユタヤ時代から近代に至るタイ王国政府の外交政策は、一貫して対ビルマ政策をどうするか、が最大の関心事だったのではないかということがぼんやりと見えてくるような気がします。タイにとって最大の危機は欧米列強でも日本でもなく、数百年に渡って戦闘を繰り返してきたこの隣国だった。そしてタイは欧米列強や日本といった勢力を巧みに利用してこの危機を払拭しようとしたのではないか、そんな気がします。

チュムポンは昔はムアン・チュムポンと呼ばれていました。ムアンとは現代タイ語では都市とか国家とかを意味する言葉ですが、当時は行政単位の一つで、地方を統括する中心都市をムアンと呼びました。12世紀ごろ、まだタイ族の統一国家が無かった時代に各地に小国家が乱立した時代がありましたが、それぞれの国家をムアンと呼んでいたらしく、それがその後行政単位の名称として用いられるようになったようです。ちなみに今チュムポン県の県域にはムアン・チュムポンの他にムアン・ランスワンがありました。私たちのバナナが栽培されているラメーやパトなど、県の南部地域の中心に今でもランスワンという比較的大きな町がありますが、そこがムアン・ランスワンです。仏暦2439年(西暦1896年)の行政改革で州(モントン)制が導入され、ムアン・チュムポンはチュムポン州(モントン・チュムポン)となり、ムアン・ランスワンは同州に組み入れられました。その後ラーマ6世時代の仏暦2459年(西暦1916年)の行政制度改革で県(タイ語でジャンワット)制が導入されることになり、この時にはランスワンもジャンワットに昇格していますので、この地にはチュムポン、ランスワンの二つの県(ジャンワット)ができたことになります。ランスワン県が廃止され、現在のようにチュムポン県の一郡となったのは仏暦2475年(西暦1932年)のことでした。ところでかつてのムアン・ランスワンが、チュムポンと拮抗するほどの勢力と繁栄を誇った町であったことは、今の行政区分に如実に反映されています。現在チュムポン県の県庁所在地であるムアン郡とその南隣にあるサウィ郡との境界には、ウィサイ・ヌアとウィサイ・タイという非常に似通った名前の区があり、前者はムアン郡に、後者はサウィ郡に属しています。ヌアは北、タイは南ですから北ウィサイ区と南ウィサイ区、一見すれば同じ郡にあってもおかしくない地名です。これがなぜ二つの郡に分断されているか、というと今のサウィ郡がかつてのムアン・ランスワンの支配下にあったからなのだそうです。ちなみにこの南ウィサイ区、ですが現在トゥンカーワット農園経営農民会の最大のバナナ生産地区であるナイトゥン地区がある辺りのことです。

行政区分等

チュムポン県の人口は2009年の統計で、48万7,744 人、男性が24万2,915 人、女性が24万4,829 人、人口密度は1平方キロ当たり73人となっています。県は現在1.ムアン郡、2.ターセ郡、3.パティウ郡、4.ランスワン郡、5.ラメー郡、6.パト郡、7.サウィ郡、8.トゥンタコー郡の八つの郡に区分されており、それぞれの郡がさらにタムボンと呼ばれる小区に区分されています。いくつかの行政村(ムーバーン)が集まってタムボンを構成していますが、県全体のタムボン数は70、ムーバーンの数は736となっています。

ちなみにラメー郡は県の最南端にある郡で、1.ラメー区、2.トゥンルワン区、3.スワンテーン区、4.トゥンカーワット区の四つの区(タムボン)で構成されており、全部で47村落となっています。

これまでの歩み

1993年~1996年

よどがわのラメー初訪問

村の集会場に関心ある農家が集まり、大阪よどがわ市民生協長部長の説明に耳を傾けた。(1993年7月12日)

グループ誕生前夜

グループ発足を前に、無農薬栽培バナナを日本向けに輸出していた先駆的農協タヤン農協を視察した時の珍しい写真。夜は皆で農協事務所に宿泊した。写真手前、床に座っているのはソムヌック現副理事長。(1993年7月18日撮影)

月例会議

発足当時は月一回、メンバー全員が小学校の教室に集まって会合を開き、作付割り当てなどを決めていた。なお撮影したこの日の会議には首都圏コープ事業連合の山本伸司現常務執行役員が出席していた。(1993年12月)

初めてのバナナ栽培・・・

グループ発足後間もない頃の苗の作付け風景(1993年12月撮影)

皆が真剣・・・

訪問した大阪よどがわ市民生協職員と真剣な顔で協議するニポン理事長(当時)ら執行部(1993年12月16日撮影)

初代作業場

サハコンパタナー小学校の講堂を使用していた。

とくしま生協の初訪問

林みす子理事長(当時:写真中列左から4人目)を団長とするとくしま生協一行が現地を訪問、「覚書」に調印した。(1994年10月)

冷蔵コンテナが到着

1994年10月の黄変・全量廃棄事故を教訓に冷蔵コンテナを設置した。稼動に必要な電源設備の設置費用は大阪よどがわ市民生協が支援した。(1995年3月8日)

第二次訪日団

ラメーからの一行四名が訪日、よどがわ市民生協組合員・職員と交流したほか、とくしま生協の総代会にも出席した。写真はよどがわでの交流会の風景(1995年5月30日撮影)

当時の出荷作業風景

同上

(1996年12月24日撮影)

1997年~2000年

よどがわ20周年

大阪よどがわ市民生協創立20周年記念式典に参加したタウィ会員(左から二人目)とジャルーン農業振興局員(同三人目)。(1997年2月)

新作業場建設

完成間近の新作業場を前によどがわ・藤田部長らと。この日よどがわから作業場建設支援金42万円が会に贈られた。作業場は同年5月に完成した。(1997年3月10日)

大洪水

97年8月、大型台風によって洪水となり、橋は通行不能に。幹線道路も寸断され、20日間余り出荷できない状態になった。

そして大旱魃

逆に翌年の乾季は深刻なエルニーニョ旱魃に見舞われ、生産基盤が壊滅的な打撃を受けた。(98年乾季)

苦しいときほど交流を

旱魃の真っ只中にあった98年3月、第5次よどがわ友好訪問団がラメーを訪問、生産者を励ました。

 

復興に向けて

旱魃被害に対するよどがわからの義捐金を受け、会では「よどがわ基金」を設置、生産基盤の復興支援を進めた。写真は98年12月に開かれた同基金運営委員会の会合風景。

 

営農活動も開始

生産基盤復興に向け、スカパット理事(写真左端:役職は当時)が常勤役員となり圃場を巡回、栽培指導を開始した。(1999年3月撮影)

笑顔が戻ってきた・・・

復興への努力が実り、99年10月には出荷量が13トンまで回復、作業員の表情にも明るさが戻ってきた。

新しい力

パト郡など近隣で農業に従事している若い生産者がバナナ栽培を開始、生産力は急速に伸びていった。(写真はパンワン地区の生産者の圃場:2000年5月撮影)

鳥取県生協職員の訪問

2000年7月、鳥取県生協の若い職員3名が井上商品部長に率いられて、ラメーを訪問、パト地区の若い生産者と交流した。(2000年7月21日)

スカパット専務が鳥取を訪問

鳥取県西部地震があったこの年の11月、スカパット専務理事(当時)が鳥取県生協を訪問、松軒専務理事に記念品のほか、6万円の義捐金を手渡した。ラメーの生産者が同生協を訪問したのはこの時が初めてだった。(2000年11月14日撮影)

 

2001年~2002年

鳥取生協組合員がラメー初訪問

鳥取県生協組合員15名の皆さんがラメーを初訪問。バナナの苗を記念植樹するなど産地の皆さんと交流。(2001年1月17日)

 

バンラートを招いての産地交流会開催

バンラート農協のバナナ生産者を招待しての産地交流会を開催。栽培に関する熱心な意見交換が為された。(2001年3月17日)

 

第8次よどがわ友好訪問団

2001年8月22日、よどがわ友好訪問団がラメーを訪問、パト地区の圃場などを視察したほか、80名ほどの生産者が集まっての意見交換会も開催した。

新体制

発足から会の運営を支えてきたニポン理事長が勇退、イサラー理事長率いる新体制が発足した。(2002年3月4日)

営農指導員が鳥取訪問

2002年3月11日、ナレート営農指導員が鳥取を訪問、生協主催の「産直虹の集い」に参加した。

また旱魃が・・・・

この年、ラメーは四年ぶりの旱魃に直面、新執行部は発足直後からその対応に追われた。(2002年4月撮影)

とくしま生協職員が訪問

とくしま生協職員四名がラメーを訪問、圃場・出荷作業を視察し、生産者と交流した。(2002年7月12日)

9周年

タイでは「9」をラッキーナンバーとすることから9周年を迎えたこの年、ラメーで記念行事を開催した。同時に「栽培・出荷基準」を改めて確認、調印した。(2002年9月14日)

イエローカード

9周年行事での「栽培情報開示に対する要求が高まってきている」という日本サイドの示唆を受けて、栽培管理記録票(イエローカード)を導入。(2002年11月)

旱魃への義捐金寄付

2002年12月12日、 大阪よどがわ市民生協の前川常務理事(当時)がラメーを初訪問し、旱魃被害に対するよどがわ、しこく、鳥取三団体からの義捐金50万バーツをイサラー理事長に手渡した。