タイの首都バンコクから南へ約570キロ、チュムポン県ラメー郡に「トゥンカーワット農園経営農民会」の活動現場があります。「トゥンカーワット」とはラメー郡にある地区の名称で、この農民会に所属する会員の多くがこの地区に居住していることからこの名称がつけられました。
ラメー郡はゴム、パーム椰子、コーヒーなどの栽培が盛んな農業地帯。郡としての歴史はまだ浅く、現在ここに生活している人々のほとんども他の地域から入植してきた人々で、まだ入植第一世代の世帯がかなりの数に達します。いわば「開拓農村」なわけです。わずか30~40年前までこの地域には住む人もなく、鬱蒼とした熱帯林が生い茂っていた といいます。行政の働きかけで入植が奨励されたのを皮切りに南部タイのあちこちから次々と入植者がこの地に駆けつけ、この森を切り拓いて生活の糧となる農作物を植えていったのです。当時は野生の虎などもいたということです。ラメーの皆さんと話をすると、ワクワクするような開拓農民の生の経験を聞くこともで きます。
農民会の発足は1993年7月、大阪にある大阪よどがわ市民生協の呼びかけに応じて農民会の組織化に加わった発足当初の 会員数は46名。彼らは無農薬バナナを同生協に供給するために、団結して農民会を組織したのでした。同生協は「安全、安心」をテーマに環境にやさしく、人間にとって安全な商品の開発と消費者への供給を設立以来ずっと追及してきた生協ですが、この間組合員の要望に答えられない商品がありました。それがバナナだったのです。生産者がはっきりとわかり、生産過程で農薬が使用されず、しかも生協がその生産物を利用することで、生産者とその地域社会が良くなっていくようなバナナを、よどがわは十数年間、捜し歩いてきたのです。

それまでラメーの人たちはバナナを本格的に栽培したことなどなかったのですが、8月にはバナナの作付けが開始され、バナナ園があちこちに誕生しました。年が明けた94年1月、よどがわ生協の友好訪問団がラメーを訪れ、相互の交流と協力を約束し会う「共同宣言」への調印が行なわれました。そして3月に記念すべき第一回出荷が行われたのです。
それ以来ラメーの生産者は2年目には100名を越え、地域に根付いた組織へと徐々に成長してきています。日本の消費者との間の交流活動は継続的に展開され、毎年相互に代表団を相手国に派遣しながら相互理解を深める中で、組織の運営能力やバナナの生産技術を向上させてきています。94年10月にはとくしま生協がこれに加わり、その後同生協も会員となっているコープしこく事業連合全体がラメーのバナナを扱うに至っています。95年3月に任意団体だったグループは正式に法人登録され、名称をこれまでの「ラメーホムトンバナナグループ」から「トゥンカーワット農園経営農民会」へと改称、またこの年鳥取県生協も供給先の仲間に加わりました。

98年、タイは未曾有の金融危機に遭遇しましたが同時にエルニーニョ現象によって大旱魃が襲った年でもありました。この年ラメーのバナナは壊滅的な打撃を受けます。しかしよどがわ生協からの義援カンパが寄せられ、会ではこれを「よどがわ基金」として旱魃被害後のバナナ生産復興基金として運用しました。この頃年週当たり出荷量わずか 700kgという水準にまで落ち込んだこともありましたが、生産者は粘り強く栽培を続け、徐々に生産量が回復、翌年には週6~7トンというところまで回復しました。
99年以降は順調な天候にも 助けられバナナ生産は着実に回復し続けました。この頃を境に会はバナナ生産に関する生産指導力を徐々に身につけて行きます。それまではどちらかというとた だ出来上がったものを買っていたに等しかったのですが、大旱魃によって生産基盤が崩壊したことで執行部自らが生産現場に行って生産者の話を聞くことの重要性を再認識したのでした。折りしも経済危機の嵐が吹き荒れる中、農家の購買力は低下し、エルニーニョ旱魃の影響はバナナだけでなく、ゴムや他の果樹などにも壊滅的な打撃を与えたため、農家は栽培期間が短くて現金を取得できる作物に傾斜しようとしていました。そこでバナナが農家の暮らしと農業経営の中で重要な位置を占めるようになっていったのです。

会員の中から専従者としてスカパット専務理事が就任、会員をこまめに訪問して栽培指導を地道に始めました。将来の旱魃被害に備えて、栽培対象地域をラメー郡外にも拡大、近隣のターチャナ郡の生産者などが仲間入りしました。さらにパト郡、ランスワン郡などからも若手の熱心な生産者が駆けつけ入会、会員数は280名を超える大所帯になりました。生産の裾野と多様性が広がったことに加え、99~2000年の乾季は雨が比較的頻繁に降ったためにバナナの生産全体も急激に伸びました。農民会の2000年のバナナ出荷量は前年からほぼ倍増、3月には創設以来初めて注文を上回る余剰が出るに至りましたが、99年後半から首都圏コープ事業連合(現パルシステム生活協同組合連合会)が供給先に加わったことがこの生産増をうまく吸収しました。この時期の農民会のバナナ生産は2002年と05年に旱魃被害を経験する(この時の被害も前二回に引けをとらない深刻なものでした)ものの、基本的には右肩上がりで推移しました。
2007年には首都圏コープ事業連合とペッブリ県バンラート農協が提携して結成された産直協議会に農民会も正式に参加、同年10月には同連合会が日本国内を含む産直産地で頻繁に実施している公開確認会が農民会で開催されました。これは2004年にバンラート農協で開かれたものに続く、タイのバナナ産地としては二回目の公開確認会で、日本から20名以上の生協関係者、学識経験者が参加して農民会のバナナ生産管理の仕組みなどについて確認しました。
2008年、農民会はパルシステム連合会(首都圏コープ事業連合から改称)の助成を受けて本部敷地内にBM生物活性水プラントを造成、環境にやさしい農業生産体系の構築に向けてさらなる一歩を踏み出しました。
2012年10月現在、農民会の会員数は800名を超えましたが生産圃場数は190箇所余りに縮小してきています。度重なる突風被害や洪水、旱魃などの自然環境の変化によって生産が安定していないことが原因で、出荷量も2006年をピークにその後は伸び悩む状態が続いています。農民会では生産の建て直しに向けて地道な努力を続けていますが、同時に「量を追求するよりも質的な転換を」を目標に掲げて、生産の裾野を無闇に拡大するのではなく、個々の生産者の栽培管理の質的向上などを重視することで量的な拡大にも繋げたいとしています。天候不順が頻繁になって生産が益々不安定になる要素が強まる中で、農民会の地域における指導力が問われています。
2011年の農民会の事業高は約1200万バーツ、資産総額は502万バーツとなっています。
トゥンカーワット農民会役員名簿(任期2012年1月~2014年12月)
理事長 | ソムヌック・ラティデーチャーノン |
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副理事長 | スウィット・ヌートーン |
理事 | ピチット・ソイホーム |
理事 | ゴーソン・ゴーミン |
理事 | バムルン・トンカム |
参事 | カムヌアン・ペンサグン |