生産地情報

1.トゥンカーワット農園経営農民会

ソムヌック・ラティデーチャーノン

ソムヌック・ラティデーチャーノン

1993年7月、ラメーホムトンバナナグループの名のもとにわずか36名の有志たちの協力により開始されたこの日本輸出向け無農薬ホムトンバナナ栽培事業は、1995年3月21日に現在のトゥンカーワット農園経営農民会へと改称され、今では生産会員数が800名を超えるまでに成長しました。“環境保全型農業の推進”“農村部の雇用促進”“無農薬農業”“国際親善”の4項目を理念とした我々の活動は、今では国や地域社会からも認められ、優良農民会として数々の賞を受賞しています。地域住民はもとより、今後のタイ国の発展のためにも、末永くこの事業が続くことを願ってやみません。

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バンコクより約480km、海沿いのラメーの町から標高100~200mほどの山岳地帯にかけての地域で、熱帯であり一年中気温は30~35℃と高いです。雨期が一年の半分以上(5月~12月)と長いです。最近は世界的な異常気象の影響もあり98年、04年と大きな干ばつに見まわれました。もともとタイ政府が開墾した土地で南部から入植した農家が多く、バナナ農地も平地から山間部のもの、大規模栽培から庭先栽培のものと多様です。水の有効活用、土壌の疲弊を防ぐため果樹との混植栽培をする生産者が多く、ゴム、コーヒー、パーム椰子、ドリアンなどの産地です。ホムトンバナナ栽培以前に商業的なバナナ栽培の歴史はありませんでした。

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チャイヤー地区、トゥンカーワット地区、プララック地区、ファイサイカオ地区、バンナーサーン地区、パノム地区、カオタル地区、ナムチャー地区、ナイトゥン地区、サーマッキータムカワンジャムパー地区、クロンクラン地区、ターチャナ地区、ヌーンサンテイ地区、ミットアーリー地区、サラカオ地区、ヒンルークチャーン地区。

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817名


2011年8月現在

2.バンラート農業共同組合

フーン・プーンソムバット

バンラート農業協同組合は、“組合員の満足”を第一義としながら、組合員同士の支え合いと各個人の自立を目指し、日々の活動に邁進しております。1975年8月1日の組合設立以降、現在までに組合員世帯数は約7,500名を数えており、組合の取り組んでいる各種事業の中でも1996年6月にスタートしたこの日本輸出向け無農薬ホムトンバナナ栽培事業に於いては成長著しく、現在までに生産会員数が640名を数えるほどの、今では当農協にとって欠かすことのできない一大事業へと成長しています。生産者と消費者間のたんなる作物の取引きではなく、“人と人との交流”を重視したこの事業は、タイ国では過去に例を見ない、非常に興味深い取り組みであると感じています。

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バンコクより南西に約130km、南部がなだらかな高原地帯、東部が海岸地帯でその間の平野地に広がっているのがバンラート郡です。 西部にダムがあり用水路が何本も東西方向に流れ、水利に恵まれており、米を雨期、乾期の二期作で作れるのはこのためです。 首都バンコクより近いという立地条件があり、1000万人近い人口を抱える首都圏の食糧基地としての機能をはたしています。海岸地帯にはホアヒン、チャアムなどのリゾート地も近く多くの観光客が訪れます。

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ムアンガーム地区、ライサトーン地区、ルムサモー地区、バンソン地区、マプラカオ地区、バングアイ地区、グラットルアン地区、ノンフェブ地区、ラハーンヤイ地区。

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640名


2011年8月現在

3.チュンポン県ホムトンバナナ生産組合

プラスート・ポンプルクサー

チュムポン県無農薬ホムトンバナナ生産組合。“無農薬”の名を冠する当組合は、これの実現こそにその存在意義があり、我々にとって決して外れてはならない“道”であります。当組合の発足当初は当然ながら正しい栽培知識を持った者は無く、誰もがただ闇雲に栽培に取り組むだけで、数々の失敗を繰り返して来ました。しかしその経験があったからこそ、我々は知恵を絞るようになり、新しい栽培技術が生まれ、“無農薬”でバナナを栽培するという我々の“道”が、よりしっかりとしたものへと生まれ変わりました。今後もこの“道”をよりしっかりとしたものへと作り上げていくべく、生産者一同手を取り合いながら、努力邁進していく次第です。組合長という立場にある私が目指すところは、すべての生産者の成功です。家族であり、仲間である生産者の誰かが失敗をして痛い目を見ているうちは、真の意味での成功とは言えません。全員が笑える日を目指し、これからも頑張っていきたいと思います。

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ホムトンバナナは4つの産地で栽培しています。今回はチュンポン県ホムトンバナナ生産組合を紹介します。 もともとはトンカーワット農園経営農民会の会員であったパト郡の生産者が、遠隔地であるため出荷もたいへんなことからパト郡の森林局水源管理事務所と協力して独立し設立しました。その後生産の拠点はパトからやや北のサウィーに移り、04年5月には組合法人として認可され現在の名称になりました。コーヒーが最も栽培が盛んな作物であり、バナナ栽培が商業的に行われてきた歴史はありません。他にはドリアン、ランプータン、マンゴスチン、ココナッツなどのトロピカルフルーツの栽培が盛んです。

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ナーポー地区、ナムチャー地区、ナイトゥン地区、チュンポン地区。

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125名


2011年8月現在

4.イサーンホムトンバナナグループ

ジャカリン・ポープロム

私が初めて近隣農家を集めてホムトンバナナ栽培グループを結成したのは、1997年のことです。以来、20名のメンバーで国内販売向けにホムトンバナナ栽培に取り組んで来ましたが、国内で捌くには週5トンが限界で、常にそれを超えないよう栽培量の調整を行う必要がありました。“もっとたくさん作れるのに、売り先がない”という長年我々の頭を悩ませ続けて来たこのジレンマを解決してくれたのが、この日本輸出向けホムトンバナナ事業です。農家の中には、本当に日本人がバナナを買い取ってくれるのかと信用できずにいる人もまだまだ多く、2010年9月の第一回出荷以降、今のところ大した量の出荷は実現できていません。しかし伸び代はいくらでもありますので、期待して待っていてください。

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バンコクからノーンカーイは北東へ約600km、 列車で約12時間バスで約10時間くらいかかります。ノーンカーイ県はコーラート台地に位置する。メコン川に接しそれがラオスとの国境にもなっている。ノーンカーイ中心部からは25km離れたところにヴィエンチャンが位置し、県庁所在地からはタイ=ラオス友好橋がかけられており、陸路によってラオスに行くことが出来る。ちなみにノーンカーイ県民の場合はビエンチャンへ行くのにビザがいらず、船によって簡単な手続きを踏んで越えることが出来る。ノーンカーイ県はラーンサーン王国、アユタヤ王国双方の支配を代わる代わる受けたことで有名である標高が平地より100~200m高い。そのため降雨が不安定で旱魃・洪水が多い。暑季には36度以上にもなり乾期には15度以下になったりする厳しい気候。

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サーンコーム地区、ポーンピサイ地区、ファオライ地区。

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77名


2011年8月現在

バンラート

バンラート農協について

バンラート農協ってどんな組織?

バンラート郡の中心には時計台がある小さな交差点とその周辺にわずかな商店街があるだけ。夜の繁華街などはもちろんありません。農協の事務所はこの商店 街の一角にありますが、この郡における農協の地位を象徴するかのようにその構えは立派なもの。そして何よりもこの小さな街のたたずまいに似つかわしくない ような広大な農産物卸売市場が農協によって運営されているのです。

農協の歴史は1940年に遡ります。この年バンラート郡内で行政の働きかけを元に28の小さな共済組合が誕生しました。 その後1952年に32まで増えた これらの共済組合が合併されて出来たのがバンラート農協です。75年にバンラート土地組合を吸収合併し、 現在に至る農協の基盤が確立しました。75年当時 の組合員数は1,401世帯でした。その後農協は行政の補助を受けながらも着実に事業基盤を拡大し続け、 精米所・米保管倉庫、家畜飼料配合施設、給油所、 農産物卸売市場などを建設・運営してきました。そうした実績が評価され、89年、92年、93年の3度に渡り、 行政から優秀協同組合賞を受賞しています。

2012年3月末日現在、組合員数は8,023世帯、出資金総額は1億252万バーツ、事業高は2億2672万バーツ、資産総額は9億3320万バーツ余りに達しています。

バナナ事業の経緯

バンラート郡は古くから稲作、果樹栽培が盛んな農業地帯。バナナ栽培も伝統的に無農薬で栽培されてきており、それまではバンコクを中心にした国内市場への出 荷がメインでした。 バンラート農協が組合員が作ったバナナを集荷し、日本向けに出荷し始めたのは96年9月。先行して94年に輸出が始まっていたラメーで の生産量が日本での需要に間に合わず、 PPFCが同農協に取り組みをもちかけました。ただ取組開始直後の96年10月には、バンラート地区が多雨による洪 水で浸水、 さらに97年4月には突風によるバナナの倒壊など度重なる天災被害にバナナ生産も大きな影響を受け続けてきました。 それでも根気強くバナナ生産 に従事する生産者が日本向けのバナナ栽培を続けてきました。当初同農協のバナナは主として東海地方の生活協同組合などを相手に出荷されていましたが、 様々な事情があって量的には伸び悩んでいました。

そうしたところへ99年7月、東京首都圏を中心に40万世帯の組合員を有する首都圏コープ事業連合代表がバンラートを視察、 9月に同連合に向けて第1回目のバナナが出荷されました。11月同事業連合との提携関係を強化するため、バナナ生産者協議会が農協内部に発足。 2000年7月には、同連合会、農協、バナナ生産者協議会の3者間で今後の事業推進の目標と課題を明確にした「共同宣言」、「覚書」への調印が行なわれ、 今後のバナナ国際産直事業の位置付けを明確化しました。

首都圏コープとバンラート農協は単なるバナナの取引ではなく、「人と人との交流」を重視した関係を維持・発展させるためその後最低年一回ずつ、 相互に訪問団を派遣して交流を行なって います。 2004年9月には産直協議会が設立され、この交流活動の推進に大きな役割を果たすようになっています。 2003年10月にバンラート一帯を襲った30年ぶりの大洪水は、生産者協議会会員のバナナ圃場に深刻な被害をもたらしました。 発足間もない産直協議会は、被災したバナナ生産農家の生産基盤復興を支援する目的で資金援助を行ないました。

BMW技術の導入

首都圏コープ事業連合はバナナ取引だけでなく、有機農業生産にとって役立つ技術をバンラート農協に紹介することで地域農業の発展にも寄与しようとしています。 BMW(バクテリア・ミネラル・ウォーター)技術はその中の一つで、2000年7月に行なわれた基礎調査を皮切りにその後数度に渡る調査・話し合いが行なわれた結果、 バンラート農協にこの技術を導入することが決定しました。この技術は地域で発生する産業廃水、農 畜産業廃水、生活廃水などをバクテリアの作用で浄化するプラントを造成し、 そのプラントで浄化された水や汚泥などを再生利用していくものです。特に生物活性水と呼ばれるこの浄化水は、日本国内では農畜産業部門への再利用で、 悪臭公害の軽減や農業生産率の向上、土壌改善などすでに一定の効果を挙げています。タイ国内初のケースとなるバンラートへの導入では、 農協組合員が経営する養鶏場にプラントを造成することになり、2001年7月に完成しました。この動き にはタイ政府も注目し、 開所式当日には農業・協同組合省から要人が出席しました。このプラントは首都圏コープ、バンラート農協、BM技術協会、 PPFCが設立したプラント協議会が運営・管理して政府機関や周辺農家などと共同で様々な実験を展開、生物活性水が日本とものと同様に効果をもたらすことが確認されています。 その後プラント協議会はタイ環境保全型農業推進協議会へと発展的に解消、2004年3月にはBMW技術をタイ国全域に普及させることを目的にサイアム・タクミ社が設立されるに至っています。
(BMW技術の詳細についてはこちら。)

公開確認会開催

2004年10月には首都圏コープにとって海外初めてとなる公開確認会をバンラートで開催しました。 公開確認会とは首都圏コープ事業連合がこの間日本国内の産地を 中心に開催してきたもので、生産に関する情報を消費者に開示し、 合意した通りに生産活動が進められていることを実地に検分してもらうことを通じて消費者・ 生産者相互の信頼関係・友好関係を発展させていくことを目的にしています。 今回の公開確認会には日本から監査人12名を含む総勢40名が参加し、無農薬バナナの栽培と出荷の現場を視察したほか、 栽培・出荷の管理体制についても書類の監査や生産者側代表者によるプレゼンテーションなどを通じて確認しました。 「環境保全型農業の構築を通じた生産者・消費者双方の暮らしの安全と安定実現」という共同宣言・覚書の趣旨が、 その具体化に向けてどの程度進展しているか が監査の焦点でした。もちろんたくさんの課題が確認されましたが、 監査人の皆さんは農協とバナナ生産者協議会がこの間この趣旨実現に向けて着実に努力していることを確認しました。

新体制

2005年、首都圏コープ事業連合は「パルシステム生活協同組合連合会」に改称しましたが、バンラート農協との関係は継続的に発展してきました。バンラート農協・首都圏コープ産直協議会は、その後トゥンカーワット農園経営農民会も入会するに至って、タイ・パルシステム産直協議会へと改称、相互交流も同会の生産者などが加わって質量共に充実度を増してきています。

2008年3月、それまで20年以上の長きに渡って農協参事を務めてきたチャウィ・ジャイヤイ参事が定年のため勇退、その後継者として内部からシリチャイ・ジャンナーク新参事が就任しました。ほぼ時を同じくしてバナナ生産者協議会会長にはフーン・プーンソムバット元組合長が就任、同会長は組合長時代に何度もパルシステムの招聘で訪日、自身も熱心なバナナ生産者で、バナナ事業の取組への理解と積極性は折り紙つき。こうしてフーン会長とシリチャイ参事との二人三脚体制がスタートしました。

新体制発足後、バンラート農協のバナナ事業は飛躍的に拡大します。新規加入生産者と新規作付の数が急速に拡大、生産地域もペッブリ県全域に広がってきました。

2011年9月には月間出荷量としては過去最高となる129トンを出荷するに至りました。しかし近年では毎年のように襲う突風による被害や洪水のリスクなどが生産を脅かす状況は解決されておらず、通年で安定した生産を行なう体制が確立されているとは言えません。この結果ここ数年は乾季の一時期(12月~2月頃)にかけて生産量が急激に落ち込む傾向が見られ、農協としてはその打開のためにこの時期の生産者買取価格を引き上げるなどの措置を導入し始めています。

2012年10月現在の生産者数は156名、作付圃場数は243圃場、作付本数は18万4000本余り、2011年通年の出荷量は664トン(1月~12月)となっています。

地理情報

ペッブリ県バンラート郡はタイの首都バンコクから南西に約130キロのところにある、農業が主産業の地域です。 バンコクからは片側ニ車線の整備された道 路が続き、車で約1時間半も走れば、そこがもうペッブリ県。80年代後半から90年代前半にかけての経済成長を通じ、 都市文明が急速にタイ社会に浸透して きましたが基本的にタイはまだ農業の国。ペッブリ県にはまだのどかな田園風景が豊かに残っています。

ペッブリ県を構成するのはバ ンラートを含めた7つの郡と県庁所在地のムアン(都市の意)・ ペッブリ。バンラート郡はこのムアン・ペッブリからわずか7キロの位置にあります。 郡の総面 積は約300平方キロでその6割以上が農業用地。中でも稲作が最もさかんで農地の7割が稲作用地です。 郡の西方にダムがあり用水が流れているため一年中農 業用水に事欠くことはありません。これらの数字からも分かる通り、 バンラートは稲作を中心とした農業地帯で、農家比率も郡世帯数の8割以上を占めています。 こうした事情からバンラートは伝統的なタイ農村社会の価値観を今でも維持している部分が多く、 家族・親族あるいは地縁を中心にした人々のまとまりが強く村落内での相互扶助慣行なども色濃く残っています。

県の歴史

7~8世紀ごろには、ペッブリ県の周辺に集落が形成されていたことが考古学の研究で明らかになっています。 現在のバンラート郡の周辺にも古い集落があった形跡があるようです。この頃現在のタイにはタワーラワディという国が繁栄していてタイの各地にタワーラワディの都市国家の特徴である土塁跡が発掘されていますが、ペッブリ周辺にはその跡は発見されておらずわずかにタワーラワディ時代のものと推測される石器類が発掘されるに留まっています。いずれにしてもこの時代、タワーラワディの文化的影響を受けた集落がこの地にあったことはまず間違いないようです。確かな証拠はありませんが、ペッブリの最も古い寺と伝えられるマハータート寺の建造物の中に古いタワーラワディ様式の土台跡らしきものが残っているということです。その後アユタヤ時代、現在のラタナコシン王朝時代を通じ数度に渡って補修されたためにその痕跡がはっきりとは残っていませんが、ペッブリの町の古さを物語る一つのエピソードとしては興味深いものがあります。その他の古美術品の様式などから見て、この寺が少なくともアユタヤ王朝が興る前の時代、仏教が南方から伝播されてペッブリに伝わり、その後スコータイに至った13世紀前後に建立されたものであるというのが定説になっています。

ペッブリという都市がいつできたのかについては確かな記録は残っていません。ただクメール帝国が東南アジアで大きな勢力を誇っていた11~13世紀ごろ には古代クメール文化の影響を受けながら、集落が都市へと発展していった跡が見られます。現在のペッブリ市がある場所とはペッブリ川を挟んで反対側の東岸地区に、約1キロ四方の城壁跡があることが考古学の研究で明らかになりました。こうした城壁の特徴は明らかに古代クメール様式であり、また現在市内にある古寺数箇所からクメール様式の仏像が発掘されていることから、ペッブリが都市として形成されるようになったのはクメール帝国がタイの周辺に影響力を持っていたこの頃ではないかと推測されるようになりました。なおこの頃のクメール帝国の史料に「シュリービジャヤ・ワチャラプラ」という名前の都市のことについての記述がありますが、歴史学者の定説ではこの都市はペッブリのことを指していると言われています。ワチャラプラという名称の意味がペッブリとほぼ同じ(ダイアモンドの街という意味)であることがその根拠となっています。

13世紀にタイ族による最初の統一王朝であるスコータイ王朝が興ると、ペッブリはその支配下に置かれたと考えられています。スコータイ王朝の碑文に王国の領域について記した箇所があり、そこにペッブリの名も登場するためです。この頃のペッブリ市がどの地点にあったのかについて確かな証拠は残っていませんが、先に紹介したマハータート寺(この名称の寺はペッブリだけでなく、タイ全土に何箇所もある)が当時の風習として都市の中心部に建立される傾向にあったこと、ペッブリのマハータート寺が正しくこの頃に建立された可能性が高いことなどを勘案すると、現在同時がある付近が都市の中心地であったと考えられます。クメール王朝の影響下にあった時代とは川を挟んで反対側、すなわち現在のペッブリ市街が広がっている地域です。ただこの頃の古美術品などの様式を見る限り、スコータイ王朝の支配力はさほど大きくはなく、文化的にはペッブリはスコータイの影響をさほど受けないまま推移したと考えられています。政治的にもスコータイの支配下にはあったものの独立国家として王をいただき、中国に朝貢したという記録もあります。

ペッブリが中央国家の統治機構に完全に組み入れられるのはアユタヤ王朝 (1351~1767年)になってからでした。従来の土着の王に代わり、中央より任命された領主(ジャオ・ムアン)がペッブリの統治に当たるようになりました。ペッブリの町はアユタヤ時代を通じ、何度も戦火を潜ってきました。一時期はクメールの軍勢に町を制圧されたこともあります。さらに隣国ビルマとアユタヤ王朝との度重なる戦争では、ペッブリは前線基地として重要な位置を占めていただけでなく、肥沃な土壌と豊かな気候条件から豊富な農産物を産する土地としても知られ、戦略物資とりわけ戦時中の食糧の生産基地としても重要な役割を担っていました。また平時にはペッブリ以南の土地を統括し、平和を維持するための地方統治戦略基地としても機能しました。ペッブリの軍事戦略上の機能は、アユタヤ王朝が倒れてラタナコシン王朝(現王朝)の時代になり、ビルマが英国の植民地となる19世紀まで続きました。それ以降のペッブリは、王族の離宮の所在地としての位置づけが強くなり、ラーマ4世から6世まで、3代に渡ってここに離宮を築いています。現在バンコクからペッブリに到着した時にその入り口にある丘の上に豪華な建造物が建っているのが見えますが、これはラーマ4世が建造した離宮跡で、「カオワン」もしくは「プラナコンキリ」という名称でペッブリを訪れる観光客が必ずといってよいほど足を留める観光名所となっています。

行政区分等

行政機構は8郡(1.ムアン郡、2.カオヨーイ郡、3.ノーンヤープローン郡、4.チャアム郡、5.ターヤーン郡、6.バンラート郡、7.バンレーム郡、8.ゲーングラチャーン郡)と、93区、698村落に分けられています。

2007年9月30日時点での統計によると、県の総人口は456,061人、このうち男性が220,847人、女性が234,214人、総世帯数は156,457人となっています。信仰する宗教は主なものだと仏教徒が97.35%、イスラム教徒が2.49%、キリスト教徒が0.16%。2006年度の一人あたりの年収は102,202バーツです。

これまでの歩み

1996年~1998年

住まい

96年9月にバンラート農協は初めてバナナを出荷しましたが、当時は専用の作業場が無く、農協米倉の開いたスペースを使用していました。

最初の洪水

出荷開始からわずか1ヶ月弱の頃、大洪水がバンラートを襲いました。(1996年10月撮影)

冷蔵コンテナを設置

トゥンカーワットで使用していた20f冷蔵コンテナを移転して設置。(1996年11月13日)

新作業場着工

現在の作業場が1997年3月に着工、同年7月に完成しました。

産地学習交流会開催

日本の生協、消費者団体の職員のほか、トゥンカーワットからも十数名が出席したセミナー。二つの産地の生産者が初めて出会った会合でした。(1997年3月8~9日)

突風

4500本の被害が出た最初の大きな突風被害(1997年4月25日)

生産者組織化に着手

4月末から各地区での説明会を実施、生産者の組織化がスタートしました。(写真は1997年6月27日、ノンフェブ地区での説明会の風景)

新作業場

97年7月10日より新作業場での出荷が始まりました。当時は作業場周辺がまだ舗装されていませんでした。

バナナセミナー

バンコクにある某国立大学が主催したバナナに焦点を絞った学術セミナーでパネラーとして発言するバンラート農協のチャウィ参事。(写真手前:1998年1月15日)

またしても突風

98年5月6日、突然の強い雨と風でバナナが倒壊。この日この時刻にタイの元首相チャッチャイ・チュンハワン氏が死去、天もその死を悲しんでこの雨風をもたらした・・・などと噂された。

初めての生産者集会

突風被害などで不安定になった生産基盤を立て直す目的で初めて生産者を招集、150名ほどが集まりました。(1998年8月28日)

首都圏コープ

首都圏コープ職員・関係者が初めてバンラートを訪問(1999年7月23日)

初出荷

1999年9月7~9日、首都圏コープ事業連合向けに初めて出荷。

また大洪水

1999年10月14日、ペッブリ県を襲った台風の影響でタヤン、チャアム両郡を中心に大規模な洪水。バナナ圃場にも相応の被害が発生しました。

生産者協議会発足

2000年2月9日、四支部でバナナ生産者協議会が正式に発足。

調印

2000年7月9日、首都圏コープ事業連合と共同宣言&覚書に調印

40フィートの冷蔵コンテナ

首都圏コープからの要請を受けて、冷蔵コンテナを新たに購入。(2000年7月12日)

第一次訪日団

2000年11月13~19日の日程でプラソン協議会長、チャウィ参事ら計5名が訪日、BM技術の導入現場を訪問したほか、BM技術全国交流会にも出席しました。

BMWデモプラント

2000年から導入に向けて調査を開始したBM技術は、2001年7月19日に落成式が行なわれて正式に完成しました。

第二次訪日団

生産者二名とBMWデモプラント管理者一名が参加しての第二次訪問団。(2001年10月14~19日)

学習交流会

㈱ジーピーエスの野村常務、らでぃっしゅぼーやの島田氏を講師に迎えての学習交流会。公開確認会の考え方に初めて触れました。(2002年2月24日)

第三次訪日団

2002年9月16~21日、生産者3名、農協職員1名、行政関係者1名の構成で訪問。有機農業の現場視察などを行ないました。

第三次首都圏コープ訪タイ団

若森専務率いる14名が2002年10月27~31日の日程で訪問。夜の交流会では女性陣が民族衣装で踊りに加わった。

2003年~

組合長が訪日

2003年1月21~25日、農協のフーン組合長とスタット協議会マプラカオ支部長が訪日。

産直協議会が発足

2003年9月28日、首都圏コープ・バンラート農協産直協議会が発足。

過去最大の洪水

2003年10月にバンラートを襲った大洪水は過去2度のものを上回る規模で、莫大な被害をもたらしました。

生産基盤復興に向けて

洪水で壊滅したバナナ生産基盤復興に向け、産直協議会は被災生産者の復興資金を支援した。写真は2004年3月19日に撮影したもの。

公開確認会準備

公開確認会を前に農協では準備部会を設立、数度に渡り会合を開いた。写真は首都圏コープの野村マネージャー、ジーピーエスの酒井常務が出席した2004年4月24日の会合。

公開確認会訪日視察団

公開確認会の実際を学ぶため、チャウィ参事を団長とする訪日視察団が2004年6月に新潟県を訪問、JAえちご上越の公開確認会に参加した。

化学肥料削減に向けて

訪日団に参加した生産者の提案で化学肥料削減研究会が8月に発足、活動を開始した。写真は2004年9月21日、会員のバナナ圃場を研究会メンバーで視察したときのもの。

公開確認会当日

壇上でバナナ栽培の障害についてプレゼンテーションをするライサトーン支部長マノップさん(写真前列中央)。

共同宣言

共同宣言

日本国東京都及びその周辺を拠点に活動する生活協同組合連合会首都圏コープ事業連合とタイ国ペッブリ県に所在するバンラート農業協同組合及び同農協ホムトンバナナ生産者協議会は、以下の目的を実現するためにお互いを尊重し、協力し合うことを宣言します。

  • 生活協同組合連合会首都圏コープ事業連合は、安心・安全で質の高い農産物を会員生協組合員に供給し、その健康と生活の向上に貢献することを目指しています。同連合会は、バンラート農協との国際的な協同組合間提携を通し、食品とりわけ輸入農産物の安全性に対する組合員の期待に答えることを目指します。
  • バンラート農業協同組合ホムトンバナナ生産者協議会は、農協の指導の下、無農薬栽培を通じた環境保全型農業体系を確立し、生産農家の所得安定と地域の自然環境・農業環境・生活環境の向上と保全を目指します。
  • バンラート農業協同組合はホムトンバナナ生産者協議会の上部組織として、同協議会の活動を指導・支援することを通じ、生活協同組合連合会首都圏コープ事業連合との間に環境にやさしい長期持続的な農業生産と消費の確立に向けた国際協同組合間協力関係を構築することを目指します。
  • 首都圏コープ事業連合、バンラート農業協同組合ホムトンバナナ生産者協議会とバンラート農業協同組合の三者は公正な交易と親善を通じて、国の違いを越えた友好と相互の信頼を深める活動を行ないます。

覚 書

首都圏コープ事業連合会とバンラート農業協同組合及びホムトンバナナ生産者協議会は、2000年7月9日に締結した共同宣言に基づき、その実行について以下のように定めます。

Ⅰ.ホムトンバナナの栽培管理について

  • 栽培(混植含む)時及び栽培後、殺虫剤・殺菌剤など一切の農薬を使用しません。又、輪作体系の中でもできるだけ農薬を使わない努力をします。園地には除草剤を使用しないこととします。
  • 肥料は有機堆肥使用を原則とします。化学肥料の使用も認めますが、有機肥料の全面的使用への転換による環境保全型農業をめざし、研究、努力することとします。
  • 園地ごとの栽培内容を記録し、いつでも情報開示できるような水準をめざし、栽培技術の向上と消費者理解のため研究、努力することとします。

Ⅱ.加工・出荷について

  • 採取から出荷までの作業を通じ、良質な生産品として出荷できるような技術、仕組みの研究に努めます。又、職員の研修・訓練を通じて品質管理レベル向上に努めます。
  • 加工に当たっては生鮮食品であることを認識し、保健衛生上のレベルアップに取り組みます。
  • バナナの熟度・サイズ・形状などについては別途に取り決めた基準を厳守することとします。
  • 出荷単位ごとに生産者・加工状況などの記録をつけ、いつでも開示できるようにします。

Ⅲ.交流

  • 生協組合員と生産者は協議会やその他の機会を通じ、互いに交流し、経験・栽培技術を伝えあうこととします。
  • 定期的に日本の生協組合員・専従者が産地を訪問し、親善を深めるとともにバナナ生産における共通の目標に向かうための話合いをもつこととします。
  • 生産者が日本を訪問し、日本におけるバナナの消費などの状況を確認し、生協組合員とも交流ができる機会を設けます。
  • 相互に積立を行ない、交流の促進、栽培技術の向上、国際産直の発展のために活用します。この積立金の管理は別に行ない、その運用は三者の協議によって行ないます。この積立金の報告は少なくとも年一回行ない、常に情報開示できることとします。