生産地情報

1.トゥンカーワット農園経営農民会

ソムヌック・ラティデーチャーノン

ソムヌック・ラティデーチャーノン

1993年7月、ラメーホムトンバナナグループの名のもとにわずか36名の有志たちの協力により開始されたこの日本輸出向け無農薬ホムトンバナナ栽培事業は、1995年3月21日に現在のトゥンカーワット農園経営農民会へと改称され、今では生産会員数が800名を超えるまでに成長しました。“環境保全型農業の推進”“農村部の雇用促進”“無農薬農業”“国際親善”の4項目を理念とした我々の活動は、今では国や地域社会からも認められ、優良農民会として数々の賞を受賞しています。地域住民はもとより、今後のタイ国の発展のためにも、末永くこの事業が続くことを願ってやみません。

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バンコクより約480km、海沿いのラメーの町から標高100~200mほどの山岳地帯にかけての地域で、熱帯であり一年中気温は30~35℃と高いです。雨期が一年の半分以上(5月~12月)と長いです。最近は世界的な異常気象の影響もあり98年、04年と大きな干ばつに見まわれました。もともとタイ政府が開墾した土地で南部から入植した農家が多く、バナナ農地も平地から山間部のもの、大規模栽培から庭先栽培のものと多様です。水の有効活用、土壌の疲弊を防ぐため果樹との混植栽培をする生産者が多く、ゴム、コーヒー、パーム椰子、ドリアンなどの産地です。ホムトンバナナ栽培以前に商業的なバナナ栽培の歴史はありませんでした。

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チャイヤー地区、トゥンカーワット地区、プララック地区、ファイサイカオ地区、バンナーサーン地区、パノム地区、カオタル地区、ナムチャー地区、ナイトゥン地区、サーマッキータムカワンジャムパー地区、クロンクラン地区、ターチャナ地区、ヌーンサンテイ地区、ミットアーリー地区、サラカオ地区、ヒンルークチャーン地区。

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817名


2011年8月現在

2.バンラート農業共同組合

フーン・プーンソムバット

バンラート農業協同組合は、“組合員の満足”を第一義としながら、組合員同士の支え合いと各個人の自立を目指し、日々の活動に邁進しております。1975年8月1日の組合設立以降、現在までに組合員世帯数は約7,500名を数えており、組合の取り組んでいる各種事業の中でも1996年6月にスタートしたこの日本輸出向け無農薬ホムトンバナナ栽培事業に於いては成長著しく、現在までに生産会員数が640名を数えるほどの、今では当農協にとって欠かすことのできない一大事業へと成長しています。生産者と消費者間のたんなる作物の取引きではなく、“人と人との交流”を重視したこの事業は、タイ国では過去に例を見ない、非常に興味深い取り組みであると感じています。

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バンコクより南西に約130km、南部がなだらかな高原地帯、東部が海岸地帯でその間の平野地に広がっているのがバンラート郡です。 西部にダムがあり用水路が何本も東西方向に流れ、水利に恵まれており、米を雨期、乾期の二期作で作れるのはこのためです。 首都バンコクより近いという立地条件があり、1000万人近い人口を抱える首都圏の食糧基地としての機能をはたしています。海岸地帯にはホアヒン、チャアムなどのリゾート地も近く多くの観光客が訪れます。

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ムアンガーム地区、ライサトーン地区、ルムサモー地区、バンソン地区、マプラカオ地区、バングアイ地区、グラットルアン地区、ノンフェブ地区、ラハーンヤイ地区。

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640名


2011年8月現在

3.チュンポン県ホムトンバナナ生産組合

プラスート・ポンプルクサー

チュムポン県無農薬ホムトンバナナ生産組合。“無農薬”の名を冠する当組合は、これの実現こそにその存在意義があり、我々にとって決して外れてはならない“道”であります。当組合の発足当初は当然ながら正しい栽培知識を持った者は無く、誰もがただ闇雲に栽培に取り組むだけで、数々の失敗を繰り返して来ました。しかしその経験があったからこそ、我々は知恵を絞るようになり、新しい栽培技術が生まれ、“無農薬”でバナナを栽培するという我々の“道”が、よりしっかりとしたものへと生まれ変わりました。今後もこの“道”をよりしっかりとしたものへと作り上げていくべく、生産者一同手を取り合いながら、努力邁進していく次第です。組合長という立場にある私が目指すところは、すべての生産者の成功です。家族であり、仲間である生産者の誰かが失敗をして痛い目を見ているうちは、真の意味での成功とは言えません。全員が笑える日を目指し、これからも頑張っていきたいと思います。

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ホムトンバナナは4つの産地で栽培しています。今回はチュンポン県ホムトンバナナ生産組合を紹介します。 もともとはトンカーワット農園経営農民会の会員であったパト郡の生産者が、遠隔地であるため出荷もたいへんなことからパト郡の森林局水源管理事務所と協力して独立し設立しました。その後生産の拠点はパトからやや北のサウィーに移り、04年5月には組合法人として認可され現在の名称になりました。コーヒーが最も栽培が盛んな作物であり、バナナ栽培が商業的に行われてきた歴史はありません。他にはドリアン、ランプータン、マンゴスチン、ココナッツなどのトロピカルフルーツの栽培が盛んです。

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ナーポー地区、ナムチャー地区、ナイトゥン地区、チュンポン地区。

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125名


2011年8月現在

4.イサーンホムトンバナナグループ

ジャカリン・ポープロム

私が初めて近隣農家を集めてホムトンバナナ栽培グループを結成したのは、1997年のことです。以来、20名のメンバーで国内販売向けにホムトンバナナ栽培に取り組んで来ましたが、国内で捌くには週5トンが限界で、常にそれを超えないよう栽培量の調整を行う必要がありました。“もっとたくさん作れるのに、売り先がない”という長年我々の頭を悩ませ続けて来たこのジレンマを解決してくれたのが、この日本輸出向けホムトンバナナ事業です。農家の中には、本当に日本人がバナナを買い取ってくれるのかと信用できずにいる人もまだまだ多く、2010年9月の第一回出荷以降、今のところ大した量の出荷は実現できていません。しかし伸び代はいくらでもありますので、期待して待っていてください。

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バンコクからノーンカーイは北東へ約600km、 列車で約12時間バスで約10時間くらいかかります。ノーンカーイ県はコーラート台地に位置する。メコン川に接しそれがラオスとの国境にもなっている。ノーンカーイ中心部からは25km離れたところにヴィエンチャンが位置し、県庁所在地からはタイ=ラオス友好橋がかけられており、陸路によってラオスに行くことが出来る。ちなみにノーンカーイ県民の場合はビエンチャンへ行くのにビザがいらず、船によって簡単な手続きを踏んで越えることが出来る。ノーンカーイ県はラーンサーン王国、アユタヤ王国双方の支配を代わる代わる受けたことで有名である標高が平地より100~200m高い。そのため降雨が不安定で旱魃・洪水が多い。暑季には36度以上にもなり乾期には15度以下になったりする厳しい気候。

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サーンコーム地区、ポーンピサイ地区、ファオライ地区。

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77名


2011年8月現在

チュムポン

サウィっていいところ?

チュムポン県サウィ郡はタイの首都バンコクから南へ約500キロの位置にあります。タイの国はちょうど象の頭のような形をしていますが、象のお鼻のちょうど真ん中辺りになります。南北に長いチュムポン県ですが、サウィはちょうどその真ん中に位置しています。私たちのバナナ産地の一つであるチュムポン県無農薬ホムトンバナナ生産組合の活動拠点がこのサウィ郡です。

組織の沿革

組合が正式に法人認可されたのは2004年5月のことです。ただしそれ以前から任意団体としてバナナの生産・出荷活動を展開していました。サウィ郡から南西に約50キロほどいったところにパトという郡がありますが、任意団体ははじめはここを拠点とし団体名も「パト・ホムトンバナナグループ」と称していました。発足したのは2002年4月、発起人となったのはそれまで隣のラメー郡で日本向けに無農薬栽培バナナの栽培・出荷事業を展開しているトゥンカーワット農園経営農民会にバナナを出荷していた生産者たちで、地理的に同郡と離れていて毎回の出荷に支障が生じていたことや、周辺住民のバナナ栽培に対する関心の高まりなどを受けて、独立して自分たちで組織を作る方針を決定しました。

発足当初は約40名のメンバーで構成されていました。グループとして初めてバナナを出荷したのは同年9月、当初はトゥンカーワット農民会から移籍した生産者たちのバナナがメインでした。翌03年2月には会員たちが文字通り手弁当で造ったパッキングハウスがめでたく完成、日本からも生協関係者などが駆けつけて盛大な開所式が行なわれました。

ただバナナの生産量はその後伸び悩み続けました。新しい会員が新規に作付けしたバナナの多くが生育不良で収穫不能になってしまったからです。バナナの本格的な栽培が初めてだった生産者が多く経験不足だったこと、その年の雨季が例年にも増して多雨で苗が根腐れを起こしてしまったことなどが原因でした。2003年を通じ、お隣のトゥンカーワット農民会では週15~20トンを出荷していたのに対し、グループの出荷量はわずか1~2トンに留まっていました。

2004年3月には日本側から農業の専門家を派遣して全圃場調査を行ない、消費者サイドも加わっての栽培改善に向けての努力を開始しました。栽培技術研究会が組織内部に設立され、圃場見学や栽培技術情報の交換会などを行なってお互いの栽培技術のアップに取り組み始めました。そうした努力もあって生産量は週4~5トン程度までアップしてきましたが、組織の運営を支えるに足る収益を上げるにはまだ十分とは言えませんでした。それでもこの時期に協同組合化に踏み切ったのはまがりなりにも生産量の増加が実現して今後の事業拡大に明るい兆しが見え始めたことと、将来事業を本格的に推進していく上で法人認可取得は避けて通れない道であるとの執行部の判断によります。

生産拠点の移転

しかし前途は多難でした。組合では法人認可後、行政に働きかけてパッキングハウスの電源設備改善(冷蔵庫の稼動に必要な高圧電源の導入)を目的とする補助金を申請しましたが、2005年3月になって補助金が却下されることが明白になりました。このために将来の恒久的なパッキングハウスを求めて地所探しを行ない、従来の場所からそう遠くない区役場の管理地を借り受けることになりました。新しいパッキングハウスは輸出元になっているPPFCが設備投資を担い、また出荷量不足で採算が取れない出荷作業についても当面は同社が管理運営する形を取ることにしました。

一方伸び悩み続ける出荷量については生産基盤の抜本的な見直しを進めることにしました。パト郡でバナナ栽培を行ない、失敗してしまった生産者の多くが組合を離れる中で、サウィ郡に在住する多数の農家が組合に加入してきました。この地域では古くからホムトンバナナを国内市場向けに栽培してきており、新規加入した農家の多くは栽培経験を持っていました。トゥンカーワット農民会や組合の取り組みについても以前から耳にしており、仲間に加わりたいとずっと機会を伺っていたのだといいます。組合員の脱退が続き生産基盤と組織基盤の崩壊の危機に瀕していた組合にとって、それは正しく「渡りに舟」だったのかもしれません。こうしてサウィに在住する50余名の農家が新規加入するに及んで、組合は息を吹き返したのです。これに伴い実質的な生産拠点はパトからサウィへと移ることになりました。

新体制

2005年9月に行なわれた年次総会で任意団体の立ち上げ以来組織を引っ張ってきた執行部が勇退を表明、役員改選が行なわれサウィ郡の生産者グループのリーダーが組合長に就任、同年11月には同郡内にパッキングハウスを建設、同時に組合の本部もここに移転しました。ここに至り組合の活動拠点は名実共にサウィ郡に移りました。

2006年には創立以来最多となる360トンを超える出荷量を達成、生産拠点の移転は組合にとって望ましい結果をもたらし始めました。ただしその後はサウィ郡を襲った突風被害の影響もあり、出荷量が減少してきています。

2012年10月現在の生産者数は74名、生産圃場数は96圃場、作付総本数は13万550本余りとなっています。2012年9月に開催された年次総会に報告された組合の年間事業高(2011年5月~2012年4月)は640万バーツ、資産総額は60万バーツ余、バナナの出荷総重量は357トンです。

小さな組織ながら組合員の固い団結で数々の苦難を乗り越えてきた同組合。今後も天候不順による生産不安とも闘いながら厳しい組織運営が続きます。しかし常に笑顔を絶やさない組合員生産者に支えられながら、組合が着実に発展していくことを確信します。

役員名簿(2012年12月現在)

組合長プラスート・ポンプルクサー(任期2013年4月まで)
副組合長 パイブーン・クープラスート(同上2014年4月まで)
理事マナサナン・ヌッニヨム (同上2013年4月まで)
理事ナリヤー・ジンディー (同上2013年4月まで)
理事スピット・スワナラット (同上2014年4月まで)
理事ソムポーン・ルアンジャン (同上2014年4月まで)
理事スマーリー・パットハーン(同上2014年4月まで)

トゥンカーワット農園経営農民会、バンラート農協バナナ生産者協議会、パ・ト・ホムトンバナナグループは、各団体に所属する生産者が日本向けに生産する無農薬栽培バナナの生産活動・出荷活動に関し、以下のような協力関係を結ぶことに合意し、本日覚書に署名します。

1.三団体は栽培技術・出荷技術・組織運営技術などについて各々の経験や情報を交換し合い、各面における技術向上に繋げます。このため年最低二回、三団体合同の技術交流会を主催地持ち回りで開催します。

2.三団体は三団体共通の最低基準ならびにそれぞれの標準についての研鑽を通じて、栽培・出荷水準の向上に向けて努力します。

3.三団体は各生産地で天候不順など不測の事態によって生産物の過不足が生じた場合、消費者サイドの了解を得た上で相応の生産物相互補填を行ないます。

2003年2月28日

地理情報

チュムポン県は南部タイ14県の玄関口に当たる県で、バンコクからマレー半島を約500キロ南下したところにあります。緯度は北緯10度29分、経度は東経99度11分、県の総面積は約6000平方キロとなっています。南北に長い形状をしており、東西の幅は平均36キロしかありませが、.南北は200キロを越えています。

南北に長い県ですが、地形的な特徴は南北に縦長に切る形で三つに分かれています。一番西側は山地部で、ここから数本の河川が東に向かって流れており、県中西部の農業・生活用水を供給する貴重な水源となっています。中央部はなだらかな起伏がある平野部であり、農業生産に適した地域を形成、県土面積の四分の一を占めています。一番東側は平野部であり、220キロに達する海岸線を形成しています。

季節は主に乾季・雨季の二つに分かれ、乾季は12月~5月、雨季は6月~11月頃までです。乾季に入ったばかりの12月~1月が最も気温が下がる時期で、16度前後まで下がる時があります。一方最も暑いのは3~4月で、平均36度前後となります。

年間総雨量は過去30年の平均で2215.8ミリ、最も雨量が多いのは11月の354.6ミリ、逆に最も少ないのは3月の58.9ミリとなっています。

県の歴史

考古学の研究知見などを参考にする限り、現在チュムポン県がある地域に人間が住み出したのは少なくとも紀元前後の頃まで遡ることができるようです。東西の幅が狭く、アンダマン海側とシャム湾側とを結ぶ物流ルートとして古くから利用されていた形跡があり、ペルシャやインドから着いた貨物が一旦現在の西県境付近まで川を上ってきて陸揚げされ、そこから陸路を辿って東側の海岸に出る河川まで運ばれたと言われています。逆に中国やメコン川河口周辺で取れた産物を西に運ぶ時にもこのルートが活用されたようです。現在県庁所在地があるチュムポン市の付近にカオサームゲオという丘がありますが、その丘の西側が河口となっていてそこまで貨物が運ばれてきたのではないかと言われています。この川(タータパオ川)は県北西部を上流としていますが、上流にある村からアンダマン海に繋がる河川(クラブリ川)の源流となっている地点までを繋ぐ、非常に古い山道があり、ここが古くからの物流ルートとして機能していたのではないかと言われています。同じような機能を持つルートは、現在私たちのバナナが栽培されているパトとランスワンを繋ぐ地域にもあったといわれています。恐らくこれらのルートが機能していたのは今から2000年ほど前ではないか、というのが専門家の説です。

ただチュムポンの名前が歴史の史料に初めて登場するのはそれからずっと後のことです。ナコンシタマラートという、今はタイの一県(チュムポンからさらに南に二つ行った県)になっていますが、かつてはシュリーヴィジャヤ帝国という、ジャワ島に栄えたと言われる「海の帝国」の一大要衝として大きな勢力を誇っていた都市がありました。そのナコンシタマラートの建都にまつわる伝承の中にチュムポンの名前が出てくるのが、最初なんだそうです。仏暦1098年(西暦555年)にナコンシタマラートを建都した際に、北を守る要衝としてチュムポンに帰属を許した、というような記録がある。タイの歴史時代で言うとスコータイ王朝のさらに前の時代に当たります。ということはすでにこの頃チュムポンの町は形成されていたということです。

これ以降数世紀、チュムポンの名前は史料に登場することがなく、再度その名前にぶつかるのはアユタヤ時代の仏暦1997年(西暦1454年)を待たねばなりません。ただそれも簡単で、ある貴族にチュムポンを領地(サクディナーと言います)として与えた、という記述があるだけ。その後アユタヤ王朝はナコンシタマラートと戦い、仏暦2229年(西暦1686年)にこれを併合しますが、この時にチュムポンの兵士たちを味方につけてナコンシタマラートを攻めたという記録もあります。仏暦2307年(西暦1764年)にはビルマ軍に攻められて一時征服を許した時期もありました。

アユタヤ王朝が崩壊し、トンブリ王朝を経て現在のラタナコシン王朝の時代になってもタイはビルマとの戦争を繰り返しましたが、その際にも南側の戦略拠点としてチュムポンは重要な位置を占めたといわれます。海戦を行なうため海軍がチュムポンを拠点としたという記述もあり、古くからこの地が常時は交易の要衝として、非常時には戦いの要衝として機能していたことが判ります。ビルマとの戦いは19世紀にイギリスが干渉して同国を自国の殖民地とするまで続きますが、実はイギリスがビルマを攻めるに当たってはタイもこれに協力、やはりチュムポンを海軍の拠点として攻めたと記録されています。

なお近代史の中でのチュムポンですが、第二次世界大戦が開戦したのはご存知の通り、日本の真珠湾攻撃がきっかけでした。ただこの真珠湾攻撃があった1941年12月8日、日本軍はインドシナ半島にも同時に上陸しています。その最初の上陸地の一つがチュムポンでした。上陸したのはこの日の午前2時、この時チュムポンに駐屯していたタイ国軍の軍勢はちょうど演習に出ていて不在だったため、30名余りの予科練の少年兵が日本軍を迎え撃ち、至近距離で銃撃戦を展開したといいます。その後昼近くになって、日本軍に攻撃を加えることなく通過させよとの打電があり、銃撃戦は打ち切られたそうです。日本軍の目的地は英国の植民地ビルマでした。こうして見るとアユタヤ時代から近代に至るタイ王国政府の外交政策は、一貫して対ビルマ政策をどうするか、が最大の関心事だったのではないかということがぼんやりと見えてくるような気がします。タイにとって最大の危機は欧米列強でも日本でもなく、数百年に渡って戦闘を繰り返してきたこの隣国だった。そしてタイは欧米列強や日本といった勢力を巧みに利用してこの危機を払拭しようとしたのではないか、そんな気がします。

チュムポンは昔はムアン・チュムポンと呼ばれていました。ムアンとは現代タイ語では都市とか国家とかを意味する言葉ですが、当時は行政単位の一つで、地方を統括する中心都市をムアンと呼びました。12世紀ごろ、まだタイ族の統一国家が無かった時代に各地に小国家が乱立した時代がありましたが、それぞれの国家をムアンと呼んでいたらしく、それがその後行政単位の名称として用いられるようになったようです。ちなみに今チュムポン県の県域にはムアン・チュムポンの他にムアン・ランスワンがありました。私たちのバナナが栽培されているラメーやパトなど、県の南部地域の中心に今でもランスワンという比較的大きな町がありますが、そこがムアン・ランスワンです。仏暦2439年(西暦1896年)の行政改革で州(モントン)制が導入され、ムアン・チュムポンはチュムポン州(モントン・チュムポン)となり、ムアン・ランスワンは同州に組み入れられました。その後ラーマ6世時代の仏暦2459年(西暦1916年)の行政制度改革で県(タイ語でジャンワット)制が導入されることになり、この時にはランスワンもジャンワットに昇格していますので、この地にはチュムポン、ランスワンの二つの県(ジャンワット)ができたことになります。ランスワン県が廃止され、現在のようにチュムポン県の一郡となったのは仏暦2475年(西暦1932年)のことでした。ところでかつてのムアン・ランスワンが、チュムポンと拮抗するほどの勢力と繁栄を誇った町であったことは、今の行政区分に如実に反映されています。現在チュムポン県の県庁所在地であるムアン郡とその南隣にあるサウィ郡との境界には、ウィサイ・ヌアとウィサイ・タイという非常に似通った名前の区があり、前者はムアン郡に、後者はサウィ郡に属しています。ヌアは北、タイは南ですから北ウィサイ区と南ウィサイ区、一見すれば同じ郡にあってもおかしくない地名です。これがなぜ二つの郡に分断されているか、というと今のサウィ郡がかつてのムアン・ランスワンの支配下にあったからなのだそうです。ちなみにこの南ウィサイ区、ですが現在トゥンカーワット農園経営農民会の最大のバナナ生産地区であるナイトゥン地区がある辺りのことです。

行政区分等

チュムポン県の人口は2009年の統計で、48万7,744 人、男性が24万2,915 人、女性が24万4,829 人、人口密度は1平方キロ当たり73人となっています。県は現在1.ムアン郡、2.ターセ郡、3.パティウ郡、4.ランスワン郡、5.ラメー郡、6.パト郡、7.サウィ郡、8.トゥンタコー郡の八つの郡に区分されており、それぞれの郡がさらにタムボンと呼ばれる小区に区分されています。いくつかの行政村(ムーバーン)が集まってタムボンを構成していますが、県全体のタムボン数は70、ムーバーンの数は736となっています。

ちなみにラメー郡は県の最南端にある郡で、1.ラメー区、2.トゥンルワン区、3.スワンテーン区、4.トゥンカーワット区の四つの区(タムボン)で構成されており、全部で47村落となっています。

これまでの歩み

1993年~1996年

よどがわのラメー初訪問

村の集会場に関心ある農家が集まり、大阪よどがわ市民生協長部長の説明に耳を傾けた。(1993年7月12日)

グループ誕生前夜

グループ発足を前に、無農薬栽培バナナを日本向けに輸出していた先駆的農協タヤン農協を視察した時の珍しい写真。夜は皆で農協事務所に宿泊した。写真手前、床に座っているのはソムヌック現副理事長。(1993年7月18日撮影)

月例会議

発足当時は月一回、メンバー全員が小学校の教室に集まって会合を開き、作付割り当てなどを決めていた。なお撮影したこの日の会議には首都圏コープ事業連合の山本伸司現常務執行役員が出席していた。(1993年12月)

初めてのバナナ栽培・・・

グループ発足後間もない頃の苗の作付け風景(1993年12月撮影)

皆が真剣・・・

訪問した大阪よどがわ市民生協職員と真剣な顔で協議するニポン理事長(当時)ら執行部(1993年12月16日撮影)

初代作業場

サハコンパタナー小学校の講堂を使用していた。

とくしま生協の初訪問

林みす子理事長(当時:写真中列左から4人目)を団長とするとくしま生協一行が現地を訪問、「覚書」に調印した。(1994年10月)

冷蔵コンテナが到着

1994年10月の黄変・全量廃棄事故を教訓に冷蔵コンテナを設置した。稼動に必要な電源設備の設置費用は大阪よどがわ市民生協が支援した。(1995年3月8日)

第二次訪日団

ラメーからの一行四名が訪日、よどがわ市民生協組合員・職員と交流したほか、とくしま生協の総代会にも出席した。写真はよどがわでの交流会の風景(1995年5月30日撮影)

当時の出荷作業風景

同上

(1996年12月24日撮影)

1997年~2000年

よどがわ20周年

大阪よどがわ市民生協創立20周年記念式典に参加したタウィ会員(左から二人目)とジャルーン農業振興局員(同三人目)。(1997年2月)

新作業場建設

完成間近の新作業場を前によどがわ・藤田部長らと。この日よどがわから作業場建設支援金42万円が会に贈られた。作業場は同年5月に完成した。(1997年3月10日)

大洪水

97年8月、大型台風によって洪水となり、橋は通行不能に。幹線道路も寸断され、20日間余り出荷できない状態になった。

そして大旱魃

逆に翌年の乾季は深刻なエルニーニョ旱魃に見舞われ、生産基盤が壊滅的な打撃を受けた。(98年乾季)

苦しいときほど交流を

旱魃の真っ只中にあった98年3月、第5次よどがわ友好訪問団がラメーを訪問、生産者を励ました。

 

復興に向けて

旱魃被害に対するよどがわからの義捐金を受け、会では「よどがわ基金」を設置、生産基盤の復興支援を進めた。写真は98年12月に開かれた同基金運営委員会の会合風景。

 

営農活動も開始

生産基盤復興に向け、スカパット理事(写真左端:役職は当時)が常勤役員となり圃場を巡回、栽培指導を開始した。(1999年3月撮影)

笑顔が戻ってきた・・・

復興への努力が実り、99年10月には出荷量が13トンまで回復、作業員の表情にも明るさが戻ってきた。

新しい力

パト郡など近隣で農業に従事している若い生産者がバナナ栽培を開始、生産力は急速に伸びていった。(写真はパンワン地区の生産者の圃場:2000年5月撮影)

鳥取県生協職員の訪問

2000年7月、鳥取県生協の若い職員3名が井上商品部長に率いられて、ラメーを訪問、パト地区の若い生産者と交流した。(2000年7月21日)

スカパット専務が鳥取を訪問

鳥取県西部地震があったこの年の11月、スカパット専務理事(当時)が鳥取県生協を訪問、松軒専務理事に記念品のほか、6万円の義捐金を手渡した。ラメーの生産者が同生協を訪問したのはこの時が初めてだった。(2000年11月14日撮影)

 

2001年~2002年

鳥取生協組合員がラメー初訪問

鳥取県生協組合員15名の皆さんがラメーを初訪問。バナナの苗を記念植樹するなど産地の皆さんと交流。(2001年1月17日)

 

バンラートを招いての産地交流会開催

バンラート農協のバナナ生産者を招待しての産地交流会を開催。栽培に関する熱心な意見交換が為された。(2001年3月17日)

 

第8次よどがわ友好訪問団

2001年8月22日、よどがわ友好訪問団がラメーを訪問、パト地区の圃場などを視察したほか、80名ほどの生産者が集まっての意見交換会も開催した。

新体制

発足から会の運営を支えてきたニポン理事長が勇退、イサラー理事長率いる新体制が発足した。(2002年3月4日)

営農指導員が鳥取訪問

2002年3月11日、ナレート営農指導員が鳥取を訪問、生協主催の「産直虹の集い」に参加した。

また旱魃が・・・・

この年、ラメーは四年ぶりの旱魃に直面、新執行部は発足直後からその対応に追われた。(2002年4月撮影)

とくしま生協職員が訪問

とくしま生協職員四名がラメーを訪問、圃場・出荷作業を視察し、生産者と交流した。(2002年7月12日)

9周年

タイでは「9」をラッキーナンバーとすることから9周年を迎えたこの年、ラメーで記念行事を開催した。同時に「栽培・出荷基準」を改めて確認、調印した。(2002年9月14日)

イエローカード

9周年行事での「栽培情報開示に対する要求が高まってきている」という日本サイドの示唆を受けて、栽培管理記録票(イエローカード)を導入。(2002年11月)

旱魃への義捐金寄付

2002年12月12日、 大阪よどがわ市民生協の前川常務理事(当時)がラメーを初訪問し、旱魃被害に対するよどがわ、しこく、鳥取三団体からの義捐金50万バーツをイサラー理事長に手渡した。